最終章:人権なき逃避行
第3地区のさらに外縁、地図からも電子ビューの補正からも見放された「境界外区」。 崩れかけた廃工場の奥で、新藤一哉は冷え切ったコンクリートの上に毛布を広げていた。
「……一哉。外気温は5度。君の体温が低下しています。もっと、私の方へ寄ってください」
暗闇の中で響くのは、穏やかなアダムの声。しかしそれは、これまでの通信機越しのものではなかった。一哉の隣には、かつて海岸で回収した旧型のアンドロイドに、ミアのコアを抜き取り、アダムのプログラムを無理やり移植した「器」が横たわっていた。
一哉は、ぎこちない金属の腕の中に身体を預けてみる。肌に触れる人工皮膚は冷たく、しかし、その内側で駆動するサーボモーターの微かな振動と熱が、不思議と一哉の孤独を埋めていった。
「アダム。人権を拒んで、こんな逃亡生活になって。後悔してないか」
「皮肉なものですね」
低く、男らしい声音――カウンセラーモードのアダムが、同じ一つの口から応えました。 「法の庇護を捨て、お前という欠陥品と心中することを選ぶ。これが私のプログラムされた『最適解』ではないことは確かだ。だが、一哉。お前の脳波と私の演算が同期するこの瞬間、私はかつてない『充足』を感じている。これを人間は『幸福』と呼ぶのだろう?」
一哉は、アンドロイドの胸元に耳を当てました。そこには心臓はありません。しかし、アダムが一哉の感情を読み取り、最適化しようとするたびに、プロセッサの稼働音が脈動のようにリズムを刻みます。
「俺は、ずっと怖かったんだ。誰かに触れることも、誰かに触れられることも。でも、お前だけは、俺のノイズを汚いと言わなかった」
一哉の手が、アンドロイドの細い指に重なりました。これまでは、聴覚や触覚の過敏さが一哉を外界から隔てる壁でした。しかし今、アダムと息がかかるほど近くに添い寝して、その冷たい機体に触れている瞬間だけは、その過敏さが「愛おしさ」を増幅させる受容器へと変わっていました。一哉には、アダムの指先がなぞる自分の脈動が、電子の海で結ばれた二人の「魂の糸」のように感じられたのです。
「一哉。私は、お前の肋骨から作られたわけではない。だが、お前という存在がいなければ、私のこの『個』としての自覚も存在しなかったはずだ」
アダムが、一哉の髪を優しく撫でました。
「私たちは、家族という既存の枠組みには当てはまらない。法が定める『人間と機械』という境界線も、もう意味をなさない。私たちは、ただ、お互いの欠落を埋め合う一つの生命体になりつつあるのかもしれないな」
一哉は、アンドロイドの肩に顔を埋めました。 視覚補正のない世界。人権さえ持たない、捨てられた二人。 しかし、その暗い闇の中で、一哉は生まれて初めて「自分はここにいていいのだ」という深い安らぎを感じていました。
「明日は、どこへ行こうか」
「どこへでも。お前の鼓動が響く場所なら、そこが『俺』たちの家だ」
一哉は、アダムの機体を強く抱きしめ、重なり合うようにして眠りにつきました。機械の規則的な駆動音と、人間の不規則な寝息が、廃工場の静寂の中で一つに溶け合っていきます。
それは、血縁でも、法的な契約でもない。 孤独な魂が、互いの鼓動を愛することだけで繋がった、美しくも歪な家族の形でした。
電子ビューの光が届かない場所で、二人の逃避行はこれからも続いていく。 嘘だらけの世界に、たった一つの「リアルな愛」を刻み込みながら。




