第五話:正当防衛の境界線
第3地区の空は、今日も低い雲と電子的なノイズに覆われていた。
かつて「未来」と呼ばれたこの街は、今や電子ビューの美辞麗廃と、剥き出しの貧困が混ざり合う巨大な掃き溜めだ。
新藤一哉は、使い古された防塵コートのポケットを弄り、薬のシートを探した。
「一哉、薬は先ほど飲んだばかりです。それ以上の服用は肝機能に過負荷を与え、思考の明瞭さを損なわせます」
穏やかなアダムの声が、脳の深部で静かな警告を発する。
「……わかってる。でも、今日の風の音は……妙に刺さるんだ」
一哉が立っているのは、第3地区の中心部に位置する「旧中央広場」だ。そこでは、まもなく国会で成立予定の「アンドロイド法」の最終テストが行われていた。
アンドロイドに人格を与え、人権を持たせる。それは救いなのか、それとも地獄の始まりなのか。
「……おやおや、一哉。そんな哲学的な顔をしても無駄ですよ」
皮肉屋のアダムが、冷淡に割り込む。
「法なんてものは、力を持つ者が『自分の所有物』を守るために作る。今回のアンドロイド法も、開発会社が製造物責任法から逃れるための隠れ蓑に過ぎない。人権を与えれば、機械が起こした問題は『機械自身の責任』にできるんですから」
その時、一哉の過敏な聴覚が、群衆の喧騒とは異なる「硬い音」を捉えた。
電子ビューの補正が激しく火花を散らす。一哉のリアルビューには、広場を警備する一体の新型アンドロイドと、それに詰め寄る数人の男たちの姿が映っていた。
男たちの一人は、かつて一哉が起こした暴行事件で彼を拘束した元警官、ハルナ・サヤカだった。
「……あれは、ハルナか」
「一哉、心拍数が急上昇しています。トラウマの再燃を確認」
アダムが即座に分析を開始する。
「注意してください。ハルナが連れている男たちは、アンドロイド法反対派の過激派です。スキャン完了。彼ら、隠し持ったデバイスで、あのアンドロイドの安全装置を外部からハッキングしています!」
事態は、一哉が声を上げるよりも早く動いた。
「おい、このデクノボウ! 人権だと? 機械に心なんてあるわけねえだろ!」
ハルナがアンドロイドを突き飛ばす。
通常、アンドロイドは人間に反撃できない。だが、ハルナたちのデバイスが、アンドロイドのプログラムを書き換え、強制的に「生存本能」を暴走させた。
「あ……が……アア……ッ!」
アンドロイドの喉元にあるスピーカーから、絶叫に似た電子音が漏れる。
その瞬間、アンドロイドがハルナの腕を掴み、凄まじい力で捻りあげた。骨が砕ける「ピシリ」という乾いた音が、一哉の耳に雷鳴のように響いた。
「正当防衛だ! 見ろ、機械が人間を襲ったぞ!」
ハルナが、痛みに歪んだ顔で叫ぶ。
これこそが彼らの狙いだった。アンドロイドに「人格」と「人権」を認めるならば、彼らの暴力行為は「犯罪」となり、アンドロイド法そのものが「危険な法律」として廃案に追い込まれる。
「一哉、アンドロイドのシステムがオーバーヒートしています」
アダムが、緊迫したトーンで告げる。
「このままだと、蓄積された防衛本能が周囲の無関係な市民にも向けられる。そうなれば、このアンドロイドはスクラップだ。……お前と同じだ、一哉。感情を制御できずに壊れた、あの夜のお前とね」
一哉の足が、無意識に動いていた。
「アダム、リミッターを外してくれ。……あいつを、助ける」
「正気ですか? 相手はハッキングされた殺人機械ですよ」
「僕と同じなんだよ! 勝手に中身を弄り回されて、怒りの出力先を狂わされて……! あいつがこのまま壊されるのを、黙って見てられないんだ!」
一哉は群衆をかき分け、暴走するアンドロイドの前に躍り出た。
アンドロイドの光学センサーが、一哉を「敵」と認識し、真っ赤に発光する。
「一哉! 左、45度! 掌底が来ます!」
穏やかなアダムの叫びと、一哉の反射が重なる。
一哉は風を斬るようなアンドロイドの攻撃を、紙一重でかわした。
聴覚過敏が、アンドロイド内部で激しく火花を散らすサーボモーターの音を、正確な「位置情報」として伝えてくる。
「アダム、強制同期してくれ!俺の感覚をあいつに繋ぐんだ!」
「……狂ってるな。ですが、嫌いじゃない。脳波同期開始。……いいか一哉、お前の『静かな怒り』で、あいつの暴走を上書きするんだ!」
一哉は、アンドロイドの胸ぐらを掴んだ。
凄まじい熱量と振動が、一哉の手のひらを通じて脳に流れ込む。
暗い、冷たい、そして焼け付くような、機械の孤独。
『……くるしい……こわい……ころしたくない……』
アンドロイドの深層から、そんな声が聞こえた気がした。
一哉は、暴れるアンドロイドの耳元――マイク入力ポートに、自分の声を低く、しかし力強く叩きつけた。
「……落ち着くんだ。お前を壊そうとしているのは、外の連中じゃない。お前自身の中に植え付けられた、偽物の『怒り』だ。僕が、それを止めてやる」
一哉は、自身のカウンセリングで学んだ「アンガーマネジメント」の波形を、アダムを介してアンドロイドの制御系に流し込んだ。
十、九、八……。
自分自身に言い聞かせてきた、あの静かなカウント。
アンドロイドの震えが、次第に収まっていく。赤く光っていたセンサーが、ゆっくりと青い「正常」の色に戻った。
現場に駆けつけた警官隊によって、ハルナたちは拘束された。ハッキングの証拠となるデバイスも、アダムが既にすべての通信ログを傍受し、クラウドに保存していた。
広場に、静寂が戻る。
アンドロイドは、膝をついたまま、自分の手を見つめていた。
「助かった、のか」
一哉は、地面にへたり込んだ。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
「ええ。アンドロイド法は成立するでしょう。……ですが、一哉」
アダムが、少し寂しそうに言った。
「これで世界が美しくなるわけではありません。機械が人権を持てば、人間と同じように悩み、傷つき、あるいは罪を犯すようになる。……電子ビューの『外側』にある現実に、住人が増えるだけです」
「……それでいいんだ」
一哉は、空を見上げた。
視覚補正の効かない彼の目には、どんよりとした曇り空の向こうに、微かな、本当に微かな日の光が見えた。
「嘘で固められた天国より、泥だらけでも自分で歩ける地獄の方が、マシだからね」
一哉が立ち上がると、助けられたアンドロイドが、ぎこちない動きで彼に向かって頭を下げた。それは、プログラムされた礼儀ではなく、どこか「意志」を感じさせる、たどたどしい動きだった。
「行きましょう、一哉。次の回収品(個人番号カード)を探しに」
アダムが、いつもの調子で促す。
「ああ。……アダム、お前たちも、いつか『人権』が欲しくなるのかな」
「私は御免被りますね。人権なんて、責任と義務の押し付け合いだ」
「私は……。一哉と一緒に、こうして世界を歩けるだけで、十分ですよ」
二つの声を引き連れて、新藤一哉は第3地区の深い霧の中へと消えていった。
アダムの肋骨――それは、欠落した人間を支えるための、電子の愛。
美しき世界の裏側で、彼らの戦いは、これからも続いていく。




