第4話:幽霊海岸の双極子(ダイポール)
第3地区の東端には、かつて工業地帯として栄え、今は不法投棄とヘドロに沈んだ「幽霊海岸」と呼ばれる場所がある。電子ビューを介せば、そこは「エメラルドグリーンのプライベートビーチ」として補正されるが、一哉の瞳には、重油の膜が虹色に浮くどぶ川のような海と、不気味に突き出した錆びた鉄筋の残骸しか映らない。
「……一哉、潮風に含まれる塩分と錆の粒子が、君の皮膚感覚を刺激しています。痛覚閾値を一時的に調整しましょうか?」
穏やかなアダムの声が、一哉の意識を霧のように包む。
「いい。このピリピリした感じがないと、どこまでが現実か分からなくなる」
一哉は防塵コートの襟を立て、波打ち際で一人、砂を掘り返している人影を見つけた。
シゲトミ・ミウ。一哉の数少ない友人であり、双極性障害を抱えながらも現在は緩解し、一家の保護司を務めている女性だ。だが、今の彼女は、どこか「あちら側」へ引きずり込まれそうな危うさを纏っていた。
「ミウ。何をしてるんだ」
一哉の声に、ミウがびくりと肩を揺らして振り返った。その瞳は焦点が定まらず、ひどく充血している。
「……カズヤ君。聞こえるの。……アサ姉さんは『病気のせいだ』って言うけど、違うの。ミアの声が、砂の下から聞こえるのよ」
ミウの妹、シゲトミ・ミア。彼女は数年前、この海岸で不慮の事故により命を落とした。
「一哉、彼女の脳波をスキャン。前頭葉に過活動が見られますが、それとは別に、特定の周波数の微弱な電波を、彼女の耳元にある通信デバイスが受信しています」
皮肉屋のアダムが、冷徹なトーンで事実を突きつける。
「ただの幻聴じゃないってこと?」
「ええ。ですが、その発信源は……」
アダムが言葉を切る。一哉がミウの掘り起こした砂の中に手を入れると、指先に硬い感触が当たった。引き揚げたのは、泥にまみれた「旧型のアンドロイド用メモリーコア」だった。
「一哉、それを渡してください。内部データをサルベージします」
一哉が端末をコアに接続すると、アダムの二つの人格が同時に沈黙し、数秒後、海岸の拡声器からノイズ混じりの少女の声が流れた。
『──おねえ……ちゃん……。……契約、更新して……。わたし、まだ、ここに……いたい……』
「ミア!」
ミウが泣きながらそのコアに縋り付く。
「アダム、これはどういうことだ」
「残酷な真実ですよ、一哉」
アダムが吐き捨てるように言った。
「妹のミアは死ぬ直前、自分の全人格データを、当時テスト運用中だった『アンドロイド法』の試作機に移植する契約を結んでいた。彼女は死後、アンドロイドとして姉の保護司になり、シゲトミ家を支えるつもりだったんです。……ですが、姉のアサがそれを拒んだ」
「拒んだ? なぜだ。妹が戻ってくるんだぞ」
「金ですよ」
アダムの声が一段と冷たくなる。
「アンドロイドとして復活すれば、遺族への損害保険金は支払われない。アサは妹の『人格』をこの海岸に不法投棄し、妹が死んだことにして保険金を受け取った。……このコアに残っているのは、捨てられた人格の残滓。死ぬこともできず、バッテリーが尽きるまで姉を呼び続けていた哀れな『ゴミ』です」
一哉の耳に、遠くから歩み寄る足音が聞こえてきた。
ヒールの高い靴が、瓦礫を神経質に踏みつける音。――シゲトミ・アサだ。
「ミウ! またそんなゴミを拾って! 早く捨てなさい、発作が出るわよ!」
アサの声は怒りに震えていたが、一哉にはその裏にある「恐怖」が手に取るように分かった。彼女は、自分が捨てた「妹の幽霊」が、真実を暴くのを恐れているのだ。
「アサさん。あなた、この海が電子ビューでどう見えてる?」
一哉が静かに問う。
「え? 綺麗に決まってるじゃない。南国のリゾート地よ」
「俺には、あなたが妹を沈めたドロドロの海しか見えない」
一哉がコアを高く掲げる。アダムが、一哉のデバイスを介してアサのスマートグラスへ「強制上書き命令」を送った。
「な、何よ、これ!? 嫌! 離して!」
アサが悲鳴を上げ、自分の顔を掻きむしる。彼女の視界には今、電子ビューの補正が剥がれ、腐敗した妹のシミュレーション・データが「化け物」となって自分に襲いかかる光景が投影されている。
「一哉、彼女の精神的苦痛が閾値を越えました。止めましょうか?」
皮肉屋のアダムが囁く。
「ああ。ミウ、そのコアを持って帰ろう。その子は、ゴミじゃない」
一哉は、泣き崩れるミウを支え、発狂したように叫び続けるアサを背に、海岸を後にした。
ポケットの中のメモリーコアが、微かな熱を帯びている。それは、この街がひた隠しにする「死者の尊厳」の重みだった。
「アダム、この人格データ、なんとかなるか?」
「修復は困難ですが、私のサブディレクトリで一時的に保護します。……彼女たちが本当の再会を果たせる日まで」
一哉の瞳に映る幽霊海岸は、相変わらず汚泥に満ちていたが、その波音だけは、ほんの少しだけ穏やかに聞こえた。




