第3話:シリアルキラーの食卓
第3地区の夜は、視覚補正という名の「麻酔」を剥ぎ取られた者にとって、剥き出しの神経を逆撫でされるような苦行だ。
新藤一哉は、錆びついた手すりを掴み、重い足取りで坂を登っていた。肺に吸い込む空気は、カビの胞子と、遠くの廃材処理場から流れてくる金属の微粉末が混ざり合い、喉をざらつかせる。
「一哉、左耳のノイズキャンセリングを5デシベル上げます。100メートル先の配電盤がショート寸前で、高周波の悲鳴を上げています。君の脳が焼き切れる前に処置しましょう」
穏やかな女性の声――アダムの生活補助モードが、一哉の意識の縁をやさしく撫でた。
「……助かる。アダム(皮肉屋)、ターゲットの情報を」
「了解した。……トキタ・ミツオ、32歳。独身。この第3地区において『奇跡の聖人』と謳われる男です」
低く、皮肉に満ちた男の声が、脳の深部で響く。カウンセラーモードのアダムだ。
「彼の自宅周辺は、常に最高級の電子ビュー・パッチが無料配布されています。住民たちは彼の家の前を通るたび、腐敗したスラムの中に突如現れる『英国風の楽園』を幻視し、彼に感謝の念を抱く。全く、人間という生き物は、目の前の汚物より、美しい嘘を好むようです」
「……俺には、その嘘が見えない。それが仕事だ」
一哉の向かう先、路地を抜けた先に、その「異物」はあった。
一般人の電子ビューには、薔薇が咲き乱れ、柔らかなガス灯が灯るレンガ造りの邸宅が映っているのだろう。だが、一哉のリアルビューに映るのは、不自然に窓を鉄板で塞ぎ、外壁のあちこちに不気味な液垂れの跡がある、歪な形をした廃屋だった。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、数秒の沈黙の後、滑らかにドアが開いた。
「おや、新藤さん。わざわざお迎えに……。まあ、立ち話もなんです。中でお茶でもいかがですか?」
現れたトキタ・ミツオは、拍子抜けするほど「普通」の青年だった。ベージュの清潔なカーディガンを羽織り、眼鏡の奥の瞳は、穏やかな慈愛に満ちている。だが、一哉の過敏な鼻は、彼の体臭の中に混じり合う「強力な消毒薬」と、それを突き抜けてくる「甘ったるい死臭」を敏感に嗅ぎ取っていた。
「お邪魔します」
一哉が踏み込んだリビング。そこは、情報の戦場だった。
電子ビューの補正データが、一哉の脳に無理やり「豪華な家具」と「燃え盛る暖炉」を送り込もうと激しく干渉してくる。視界の端が火花を散らすようにチカチカと明滅する。
「一哉、目を閉じて! 視覚情報の同期を強制遮断するぞ! 脳波が危険域だ!」
アダムが叫ぶと同時に、一哉は視界を捨てた。暗闇の中、残された聴覚と触覚が、異常な解像度で周囲をスキャンし始める。
――カチ、カチ、カチ。
規則的な機械音が、ソファの方から聞こえる。
――ドロリ、と重い液体が床に滴る音。
「さあ、新藤さんも座ってください。紹介しましょう、僕の『家族』です」
トキタの声に合わせて、アダムが視覚野を再構築し、一哉に「真実」を見せた。
それは、地獄を整頓したような光景だった。
ソファに座っているのは、三人の中高年男性。かつて第3地区で行方不明になった、身寄りのない失業者たちだ。彼らの頭部は特殊なヘッドギアで固定され、眼球があった場所には、不気味にレンズを光らせる記録用カメラが埋め込まれていた。口筋は無理やり吊り上げられ、糸で縫い留められて「永遠の笑顔」を形作っている。
「……あ、ああぁ……」
一哉の心臓が激しく脈打つ。幼い頃、自身の衝動を抑えきれず、家族に暴行を働いたあの夜の、血の生臭い記憶が脳裏をよぎる。
「彼らはね、社会から捨てられたゴミだったんです」
トキタは、死体の一人の肩を抱き、愛おしそうに頬を寄せた。
「だから僕が『回収』した。彼らの人権ポイントを買い取り、この家を聖域にしたんです。電子ビューを同期させれば、彼らはこの豪華なリビングで、毎日楽しく笑い、僕と語り合ってくれる。孤独なのは、世界が彼らを忘れるからです。僕は忘れない。彼らを物理的に解体し、僕の血肉の一部として取り込むことで、僕たちは完璧な『家族』になれる」
トキタがキッチンから、肉厚の解体用ナイフを取り出した。その刃先には、まだ洗い流しきれていない組織片が付着している。
「一哉、状況を整理します」
アダムが、冷徹なトーンで思考を加速させる。
「地下室に大型のバイオ粉砕機を検知。彼はここで人間を『処理』し、自らの栄養源や、この家を維持するためのバイオ燃料に変換している。彼はシリアルキラーであると同時に、第3地区の歪んだ『生態系』そのものだ。一哉、聞こえますか。彼の心拍数は60。殺意さえ『平穏』として処理されている。まともな対話は不可能です」
「……止めなきゃ、いけない」
一哉の全身が怒りで震え出す。指先が痙攣し、喉の奥から獣のような唸りが漏れそうになる。
「新藤さん、あなたも……仲間に入りますかぁ?」
トキタが、ナイフを構えて走り出す。その動きは、電子ビューの残像を纏い、まるで瞬間移動のように不規則に歪んで見えた。一般人なら、どこを斬られたかも分からずに事切れるだろう。
「アダム! 予測を!」
「……いえ、一哉。計算は不要です」
アダムが、重低音で告げた。
「お前の怒りを開放しろ。お前がずっと恐れてきたあの衝動……家族を傷つけ、自分を呪ったあの暗い熱を、今はすべてこの『ノイズ』に向けろ。私が、その衝動の『出力先』を制御する。……さあ、リミッターを外せ!」
一哉の視界が真っ赤に染まった。
思考が消失し、純粋な生物的反射だけが肉体を支配する。トキタのナイフが、一哉の喉元を目掛けて振り下ろされる。
だが、一哉の過敏な聴覚は、トキタの足の裏が床のワックスと擦れる「キュッ」という僅かな音から、彼の踏み込みの深さを完璧に予測していた。
一哉は紙一重で身をかわすと、トキタの手首を、万力のような力で掴み上げた。
「くは……っ!?」
「あんたが見ているのは、自分に都合のいい嘘だけだ」
一哉の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
一哉の掌底が、トキタの鳩尾に沈み込む。肋骨が軋む感触が、拳を通じて脳にダイレクトに伝わる。
「……ぐ、……っ!」
トキタが吹き飛び、背後の「家族」たちをなぎ倒した。死体たちが崩れ落ち、縫い合わされたスピーカーから「楽しかったね」「明日の天気はどうかな」という録音音声が、場違いな明るさでリビングに響き渡る。
一哉は、倒れたトキタの胸ぐらを掴み、何度も、何度も拳を叩きつけた。
自分の中に溜まっていた、この歪んだ世界への、偽りの美しさへの、そして自分自身の「欠陥」への怒り。一発殴るごとに、自分の過去の罪が少しずつ浄化されていくような、錯覚。
「一哉、止まるんだ! 彼はもう意識がありません!」
アダムの静止の声が、霧の向こうから聞こえる。
「死なせてはいけません。彼には、この『リアルな地獄』の刑務所で、自分の罪と向き合う義務がある。お前を人殺しにするわけにはいかないんだ」
一哉の拳が、トキタの顔面の数ミリ上で止まった。
目の前の男は、もはや「聖人」でも「殺人鬼」でもなく、ただの血まみれで醜い、弱り切った人間の一塊に過ぎなかった。
一哉は荒い息を吐きながら、トキタを床に放り捨てた。
「……アダム。警察を。第3地区の『聖人』の正体を、全部ぶちまけてやる」
数十分後、静まり返っていた第3地区に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
パトカーの赤色灯が、電子ビューのパッチを焼き切り、廃屋の真実の姿を露わにする。
住民たちは、自分たちが「美しい楽園」だと思い込んでいた場所から、次々と運び出される「肉の塊」を見て、腰を抜かし、あるいは嘔吐した。
一哉は、雨の中に立ち尽くし、自分の拳についた返り血を、冷たい雨水で洗い流していた。
「後味の悪い夕食会でしたね」
アダムが、静かに呟く。
「……ああ。でも、アダム。俺のこの『ノイズ』は、まだ誰かを守るために使えるかな」
「治す必要はありませんよ、一哉。その過敏さこそが、この嘘だらけの街で、唯一の真実を掴み取るためのフックになるのですから」
穏やかなアダムの声が、雨音に混じって、一哉の張り詰めた心を静かに解きほぐしていった。
一哉は、アダムの肩に己の額を押し当てた。声もなく泣き始めた一哉をアダムがしっかりと抱き寄せる。
一度も振り返ることなく、二人は深い闇が広がる次の現場へと歩き出した。
電子ビューの見せる「偽りの救済」を拒絶し、泥にまみれた「本物の生」を抱えて。




