第2話:完璧な白衣の天使
「一哉、心拍数が不安定です。不快指数の高いエリアに入りますよ」
穏やかなアダムの声が耳元で警告を発する。
第3地区の北端、かつての高層マンションが「縦の吹き溜まり」と化した集合住宅。一哉はその湿り気の強い廊下を歩いていた。電子ビュー越しには「清潔感あふれるホスピタル・テラス」として補正されているはずの場所だが、リアルビューを生きる一哉の視界には、壁に這うカビの斑点と、剥き出しの配管から漏れる重油の匂いだけが充満している。
「ここですよ。在宅療養者、佐藤清二、82歳。バイタル低下の検知から15分が経過。……おや、先客がいるようです」
皮肉屋のアダムが、不敵に笑うような声音で付け加えた。
部屋のドアは半開きになっていた。
一哉が踏み込むと、そこには派遣看護師のノナカ・ナツコがいた。彼女は電子ビュー専用のスマートグラスをかけ、空中にあるはずのデータを忙しなく操作している。
「あら、新藤さん? 仕事が早いのね。でも大丈夫、今私が処置したから。バイタルは安定に向かってるわ」
ナツコは勝ち誇ったような笑顔を一哉に向けた。少し小太りな彼女はいつも自信満々で動き回っているこの辺りでは有名な訪問看護師だ。彼女の背後にあるベッドでは、痩せ細った老人が酸素マスクをつけ、虚空を見つめている。
「ナツコさん。あなた、いったい何を」
一哉の過敏な聴覚が、老人の胸元から聞こえる不自然な音を捉えていた。呼吸音ではない。何かが機械的に、強引に肺を動かしているような、硬い音。
「何って、適切な処置よ。この部屋の補助AIがぼんやりしてたから、私が手動で薬剤の投与量を最適化したの。見て、グラフは完璧な曲線を描いているわ」
「一哉、彼女の言うことは『システム上は』真実です」
皮肉屋のアダムが割り込む。
「私のスキャンによれば、患者の数値は確かに正常範囲内。ですが、面白いものを見つけました。ナツコのデバイスから、この部屋の補助AIへ、逆流するような命令プロンプトが送られています。内容は『不調を検知せよ、ただし私の到着まで公表するな』」
一哉の喉の奥が、嫌悪感で熱くなる。
「自作自演か」
「なんですって!?」
ナツコが眉を吊り上げた。電子ビューの補正が剥がれ、彼女の顔に隠しきれない「承認欲求」の飢えが露出する。
「あんた、わざと数値を不安定にさせて、自分が駆けつけて救う形を作ってるだろ。あんたは人を救いたいんじゃない。『人を救っている有能な自分』のログが欲しいだけだ」
一哉が歩み寄ると、ナツコはあからさまに嫌悪感を示して一歩退いた。
「自閉症の独り言は聞き飽きたわ。私は有能なの。この地区で私ほど高いスコアを出している看護師がいる? みんな私に感謝してる。──このお爺さんだって、私が来なきゃ死んでたのよ!」
「一哉、老人のバイタルに再度のノイズ」
穏やかなアダムの声が緊迫する。
「心肺蘇生プロトコルが稼働中。……待ってください、これはおかしい。ナツコが設定した数値に合わせるために、老人の心臓に埋め込まれた補助デバイスが、限界を超えた過負荷で駆動しています。数値の『整合性』を保つために、心臓を無理やり叩き起こしている!」
それは、救命ではなく、死体の上で踊る「数字のダンス」だった。
ナツコの求める「完璧なグラフ」を描くために、老人の肉体は悲鳴を上げている。
「止めろ……止めるんだ! 今すぐそれを止めろ!」
一哉が叫ぶ。彼の衝動が、抑えきれない怒りとなって指先に集まる。
「止めないわよ! 今止めたら、私の評価が下がるじゃない!」
ナツコが端末を抱え込み、一哉を拒絶する。彼女の瞳には、ベッドで苦しむ老人ではなく、自分のデバイスに表示される「成功」の文字しか映っていない。
「アダム!」
一哉が吠える。
「了解。介入を開始します」
皮肉屋のアダムが、冷徹なトーンで告げた。
「ノナカナツコの権限を一時凍結。部屋の補助AIを強制リブートし、ログの書き換えを遮断。さて、お望みの『現実』をお見せしましょう」
一瞬、部屋の中の電気が明滅した。
ナツコのスマートグラスがパチリと音を立てて消灯する。
「え……待ってよ! 嘘、何も見えない」
ナツコが狼狽し、グラスを外した。
視覚補正の消えた「リアルビュー」が彼女を襲う。
そこにあったのは、彼女が作り上げた「清潔で完璧な病室」ではない。カビ臭いベッドの上で、過剰な電気ショックに焼かれ、白目を剥いて痙攣する老人の、無惨な肉体だった。
「ひぃ……っ!」
ナツコが悲鳴を上げ、腰を抜かす。
彼女が守ろうとしていたのは、このグロテスクな真実ではなく、デジタルが描いた「美しい救済」の絵画だったのだ。
「これが、あんたがやったことだよ」
一哉は、ナツコを見下ろしながら、激しく震える拳をポケットに突っ込んだ。
アダムが静かに処置を引き継ぎ、老人の心拍は「正常」ではなく「穏やかな死」へと向かうリズムに落ち着いていく。
「なぁ、助かるよな」
「いいえ、一哉。この方の心臓はすでにボロボロです。ですが、せめて最後は、誰かのスコアのためではなく、彼自身の命として終わらせてあげましょう」
ナツコは部屋の隅で震え、壊れたおもちゃのように「私は悪くない」と繰り返していた。
一哉は、動かなくなった老人の枕元に落ちていた、黄ばんだ家族写真――電子ビューでは消去されていた「ノイズ」――を拾い上げ、静かにベッドの脇に置いた。
「……行こう、アダム。ここはもう、俺たちの仕事じゃない」
第3地区の夜が、また一つ深い沈黙を飲み込んでいった。




