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アダムの肋骨 ―第3地区の回収者―  作者: 河野章


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第1話:永遠を生きる老人の残像

「一哉、左15度。足元に未回収の空き缶。電子ビュー上では瑞々しい百合の花に置換されていますが、実物は潰れたアルミです。踏むと嫌な音がしますよ」

 穏やかな女性的な声――AIアダムの「生活補助モード」が、新藤一哉の耳元でささやく。

「わかってるよ。見えてるから」

 一哉は小さく毒づき、泥に汚れた空き缶を避けた。 彼の瞳には、この街を覆う「電子ビュー」の華やかな補正は一切届かない。高層ビルを彩るホログラムも、路地裏のゴミを隠すデジタルな芝生も、一哉にとっては存在しない幻だ。彼に見えるのは、剥げ落ちたコンクリート、錆びついた鉄柵、そして停滞した空気。それが第3地区の「リアルビュー」だった。

 一哉は胸元の端末に触れ、もう一つの人格を呼び出す。

「アダム。ホリ・ユーダイの在宅確認。位置情報は?」

「ああ、いつもの公園だ」

 今度は低く、どこか冷笑的な男の声が響く。アダムの「カウンセラーモード」だ。

「例の老いぼれは、また『幽霊』が見えると喚いている。自閉症のお前に、認知症の老人の相手。これ以上の喜劇があるでしょうか」

「黙れよ。仕事なんだ」

 一哉は、第3地区の澱んだ空気の中を歩き、近隣の公園へと足を踏み入れた。

 公園のベンチには、一人の老人が背筋を伸ばして座っていた。ホリ・ユーダイ。 電子ビュー越しに見れば、彼は小綺麗な隠居老人に見えるのだろう。だが一哉の目に映る彼は、あちこちが擦り切れた不衛生な上着を羽織り、頬はこけ、浮き出た血管が不自然に脈打つ、極限の栄養失調状態にある老人だった。

 それにもかかわらず、ホリはぎらぎらとした瞳で広場を睨みつけ、異様な生気を放っている。

「おい、シンドウ! 遅いじゃないか、何をノロノロ歩いてる!」

 ホリは一哉を見るなり、朗々と響く声で叱りつけた。その声の張りとは裏腹に、彼の手首は枯れ枝のように細い。

「いいか、よく見ろ。あそこに変なのがいるんだ。俺の目は節穴じゃないぞ。あんな薄汚い化け物が、俺の倅のそばに立ってやがる!」

 ホリが指し示したのは、広場の隅にある錆びついた回転ジャングルジムの傍らだった。一哉が視線を向ける。

 電子ビューを使用している一般人の視界には、そこには「何も映っていない」。補正システムが、不都合なノイズを消去しているからだ。だが、一哉の瞳には、それがはっきりと映っていた。

「アダム。あれが見えるか」

「スキャン中──。ああ、ひどいノイズですね。古い。骨董品レベルの電子サインですよ」  皮肉屋のアダムが、冷淡に解析結果を告げる。

 一哉の視界に映るそれは、地面に突き刺さったまま動かない、子供のような体躯をしたボディだった。表面の人工皮膚は剥がれ落ち、内部のサーボモーターや配線が、まるで腐った内臓のように露出している。それは、数十年前に打ち捨てられたはずの、旧型介護用アンドロイドの残骸だった。

「俺は嘘はつかん! あの化け物が倅を睨みつけてるんだ。どかせ、今すぐ叩き出せ!」

 ホリはベンチを叩き、激昂する。その拍子に、彼のポケットから何枚かの領収書がこぼれ落ちた。一哉がそれを拾い上げると、すべてが「高額な違法パッチの更新料」と「アンドロイド維持保険」の請求書だった。食費を削り、人権ポイントを切り売りして、彼はこの「幻」を維持しているのだ。

「一哉、ログを解析しました」

  カウンセラーのアダムが、冷徹に告げる。

「この頑固者は、あのアンドロイドの残骸に、死んだ孫の外見データを無理やり上書きして投影させていた。ですが、OSが古すぎてパッチが限界を迎えた。美化された『孫』の虚像が剥がれ落ち、バグを起こしたテクスチャが『化け物』となって露出している。滑稽ですね。食事も摂らず、自分の作り出した虚像を維持するために心身を削り、その結果生まれたバグに自ら怒りをぶつけているとは」

 一哉は何も言わず、ただ不気味に明滅するアンドロイドの残骸を見つめていた。聴覚過敏の耳に、老人の怒鳴り声と、壊れかけのアンドロイドから漏れる微かな放電音が、不協和音となって突き刺さる。

「……アダム。設定を上書きだ」

「おや、正義漢のつもりですか? 不正改造は報告義務がありますよ。彼は法を犯してまでこの嘘に縋っている」

「いいから……っ、やるんだよ」

 一哉の言葉に、今度は穏やかな方の声が応じた。

「わかりました、一哉。──ホリさん、少し端末を。そんなに興奮しては体に毒ですよ」

 一哉がホリの震える手から端末を奪い取るように操作し、アダムを介してシステムを再セットする。バグを修正し、再び「正しい嘘」を上書きする作業。 数秒後、ホリがまばたきをして前方を見据えた。

「おお、消えたか。ふん、最初からそうすればいいんだ。ほら見ろ、あいつ(孫)も笑ってるじゃないか」

 老人の目には、もう化け物は映っていない。そこには、陽だまりの中で微笑む、かつての愛孫の幻影が立っているのだろう。ホリは満足げに鼻を鳴らし、虚空に向かって「腹は減ってないか!」と快活に声をかけた。自分の腹が鳴っていることにも気づかずに。

 一哉のリアルビューには、相変わらず、無残に壊れた機械の死骸が、ただ泥の中に突き刺さっている光景だけが広がっていた。

「…帰るぞ、アダム」

「了解です。……後味の悪い顔をしないでください。彼は今、この世界で一番幸せな『嘘』の中にいるんですから。胃袋の空虚さえ感じないほどのね」

 一哉が公園を去ろうとした時、背後からホリの張りのある声が追いかけてくる。「おい、明日も来いよ! 孫に面白い話をしてやってくれ!」

 一哉は足を止め、再びアダムのカウンセラーモードを呼び出した。

「アダム。あの老人が、あそこまで元気……いや、狂気的な生気を保っているのは、あの鉄クズのおかげなのか」

「そうかもしれませんね。ですが一哉、私の解析結果を聞いてください」

 皮肉屋のアダムが、一哉の感情を逆なでするように告げる。

「ログの末尾に、ホリの設定していない命令系統を見つけました。それは『生存維持の停止命令』。あのアンドロイドの残骸……その中に残っていた孫の断片かもしれないプログラムは、主人が自分を維持するために餓死していくのを止めるために、自ら『化け物』になって嫌われようとしていた可能性があります。あの老人の頑固な愛が、機械を壊れるまで追い詰めた……とも言えますね」

 一哉は息を呑んだ。あの醜悪なノイズまみれの姿は、バグではなく、老人を「現実」へ追い戻し、まともな食事を摂らせるための、機械なりの最後の抵抗だったのかもしれない。

 だが、一哉はそれを「修復」し、再び美しい嘘の中にホリを閉じ込めてしまった。

「──俺がやったことは、間違いだったとでも言うつもりか?」

「正解なんてありませんよ。彼は今夜も、空腹を感じることなく、幸福な夢の中で力尽きるでしょう。あのアンドロイドと一緒にね。彼にとっての『正しい世界』を、君が守ったんです」

 遠くで、救急車のサイレンが聞こえた。一哉は空を見上げた。どんよりとした曇り空と、煤けたビルの群れ。 だが、その薄汚れた視界の中にだけ、誰にも加工されていない「本当の悲しみ」が確かに存在していた。

「……アダム。次の仕事に行くぞ」

「了解、パートナー。次は、派遣看護師ナツコの担当区域……第2話、『完璧な看護師の穴』の始まりです」

 一哉は一度も振り返ることなく、深い影が落ちる路地裏へと消えていった。

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