堕落者パート8
沈黙が、悲鳴のように続いた。
平穏な沈黙ではない。
何かが取り返しのつかない形で起きた後に訪れる沈黙だ。
ミランは、砕けた海岸線の縁に片膝をついたまま、動かずにいた。
片手は、いまだ熱を帯びた岩に突き立てられている。
海は元の位置へ戻っていた。
だが、音が違った。
打ち寄せる波の一つ一つが、かすかな不協和音を含んでいるようだった。
まるで世界そのものが、彼を刺激しないよう慎重になっているかのように。
ルクシオンが近くに浮かんでいた。
もはや完全に安定してはいない。
損傷しているのではない。
負荷がかかっているのだ。
[マスター……]
[直前の出力は予測許容量を超過しました。]
[この反応に関する前例データは存在しません。]
ミランはゆっくりと息を吐いた。
一度だけ、震えた。
それから無理やり呼吸を整える。
「……痛かった」
静かな声だった。
「身体じゃない。
存在そのものがだ」
ルクシオンが解析する。
[概念的痛覚を確認。]
[原因:相互に適合しない権限への同時曝露。]
[堕落存在の影響+神性撤退+ワールドシステム介入。]
ミランは立ち上がった。
動作は遅い。
慎重だ。
疲労ではない。
世界が、彼に距離を取っているかのようだった。
ソニアはいない。
暴力的に消えたわけでも、消滅したわけでもない。
撤退した。
その場には、かすかな痕跡だけが残っている。
圧縮された土。
緊急性の残響。
そして――後悔。
ミランは地平線を見つめた。
「……つまり、人類が失敗しているのは、神を失ったからじゃない」
低くつぶやく。
「構造を失ったからだ。
そして、その代替を知らない」
ルクシオンは否定しない。
[観測:]
[人類の道徳体系は、従来、神性権威へ外注されていました。]
[現在の状態:外部仲裁の不在。]
[結果:概念的真空。]
ミランは一瞬、目を閉じた。
都市の光景が脳裏をよぎる。
数週間前に歩いた街――
明るく、効率的で、調和していた。
同じ通りは今、表面下に緊張を抱えている。
鋭くなった言葉。
長くなる視線。
静かに積もる不満。
影響力を溜め込む指導者。
空虚さを埋めるために過剰に耽溺する市民。
怠惰は休息ではない――無関心だ。
強欲は野心ではない――喪失への恐怖だ。
嫉妬は欲望ではない――存在そのものへの憎悪だ。
「……彼らは生存を解決した」
ミランは言う。
「だが、意味を学ばなかった」
ルクシオンの返答は即座だった。
[結論はデータと一致。]
[罪は、高知性・低形而上耐性社会で最も効率的に顕現します。]
[人類の魔力感受性は、概念侵入を自己調整するには不十分です。]
ミランは目を開いた。
「……そして神々はフィルターだった」
[肯定。]
彼は海に背を向け、内陸へ歩き出した。
一歩一歩が重い。
疲労ではない。
責任が、形を持ち始めている。
試練のカウンターが、意識に浮かび上がる。
――
試練進行率:69%
――
動かない。
「……詰まっているな」
ルクシオンが近づく。
[理由特定。]
[ドラゴン―人類敵対ナラティブの崩壊:成功。]
[第二段階未解決。]
「……堕落存在か」
[正解。]
ミランは短く、乾いた笑いを漏らす。
「……世界は神を追い出した」
「そして、もっと厄介なものにぶつかった」
ルクシオンは否定しなかった。
彼らは夕暮れの都市外縁部へ到達した。
夜が沈み始めている。
ネオンの帯が塔の側面を滑り、
交通レーンは柔らかな青で発光する。
都市は、今もなお機能していた。
完璧に。
少なくとも表面上は。
だが、その下では――
音楽。
ミランは足を止めた。
下層地区から漂ってくる音。
生演奏。
増幅されてはいるが、生々しい。
作られた完璧さではない。
人間の声だ。
彼は、その音を追った。
会場は、二つの建物の間に吊られた屋外プラットフォーム。
観客が密集している。
見世物ではなく、感情に引き寄せられて。
ステージライトは暖色。
意図的に不完全。
そして――
そこにいた。
ライトの中央。
ゆったりとした白いシャツ。
いくつかのボタンは外されている。
濃い色の布が脚に沿って張り付く。
髪は自由に垂れ、顔の一部を隠している。
薄いマスクが残りを覆う。
衣装は演劇的ではない。
意図的だ。
注目を集めるため。
感情を引き出すため。
欲。
粗野ではない。
暴力的でもない。
注意を逸らす。
ミランは即座に彼女を認識した。
「……セレン」
ルクシオンの分析が静かに重なる。
[対象確認:セレン。]
[行動逸脱を検出。]
[概念干渉あり。]
[分類:欲望領域の影響、低レベルだが累積型。]
ミランは、彼女の歌を見つめる。
声は美しい。
澄んでいて、痛みを帯び、誠実だ。
だが、目が違う。
強すぎる。
焦点が合っていない。
まるで、どう頼めばいいか分からない承認を追いかけているかのようだ。
「……彼女は楽しんでいない」
ミランは静かに言う。
「補償しているだけだ」
[確認。]
周囲の観客は揺れている。
魅了されているのではない。
消費している。
繋がりのない欲望。
配慮のない注目。
そしてこの地区の外では――
ルクシオンがデータを送る。
[人種差別指数上昇。]
[非人類種族への敵意増加。]
[主要感情:嫉妬。]
[対象:魔法寿命、身体能力、非人類の優位性。]
「……彼らは、なれないものを妬んでいる」
ミランは言う。
「そして神が善悪を示さなくなった今――」
[彼らは敵を発明している。]
ミランは決断した。
セレンの演奏が終わり、拍手が波のように広がった瞬間――
ミランは後退し、消えた。
次の瞬間。
観客が息を呑む。
セレンは宙に浮いた。
都市が彼女の下に遠ざかる。
ミランが彼女を受け止めた。
翼が一瞬、展開する。
暗く、光の中で輪郭を描く。
彼の姿は人型だが――
圧倒的だった。
セレンは悲鳴を上げない。
頬を染めた。
恐怖ではない。
はるかに危険な感情。
彼らは高層タワーの頂上に降り立つ。
風が唸り、都市の光が果てしなく広がる。
ミランは彼女を静かに下ろし、一歩下がる。
空間を与える。
影響は即座に切れた。
セレンはよろめき、息を詰まらせる。
自分のシャツを掴む。
「……なに――」
ミランは静かに言う。
「自分を見ろ」
ルクシオンが反射パネルを形成する。
超常ではない。
ただの光と空気。
だが、十分だ。
セレンは凍りつく。
「……これが……私?」
囁き。
膝が崩れる。
座り込み、手が震える。
「……私は……」
「こんなつもりじゃ……」
「笑っていれば――」
「みんなが見てくれれば――」
「そしたら、たぶん――」
声が途切れる。
「……空っぽじゃなくなると思った」
ミランは少し離れた場所に膝をつく。
触れない。
裁かない。
「欲が君にこれをさせたんじゃない」
彼は優しく言う。
「欲は、すでに痛んでいたものを増幅しただけだ」
涙が頬を伝う。
「……ごめんなさい」
囁く。
「利用してしまって」
「……こんな自分になって」
ミランは首を振る。
「気づきは罪じゃない」
「自分を失うことが罪だ」
セレンは震えながら息を吸う。
ゆっくりと立ち上がる。
シャツのボタンを留める。
髪を後ろへ流す。
マスクを外す。
もう一度ミランを見る。
目は、少し澄んでいた。
「……私たち、どうなってるの?」
ミランは都市を見下ろす。
「罪が人類を試している」
「壊すためじゃない」
「神が残した空白を、何が埋めるのかを見るためだ」
セレンは唾を飲み込む。
「……それは何?」
ミランは立ち上がる。
翼が消える。
「……それが」
彼は静かに言う。
「俺の試練の正体だ」
上空、見えない場所で――
ワールドシステムが再調整する。
――
試練状態:進行中
進行率:69%
条件更新:概念耐性が必要
――
遠くでクロノアがそれを感じた。
危険ではない。
方向だ。
そして現実の向こう側で――
堕落存在は、ようやく理解し始めた。
今回は、世界は崩壊していない。
学んでいるのだ。




