誰でもない男のラスト・シーン
不思議なものだなあと私は部屋を見渡して思う。
生まれてから積み上げた20年余りはたった5日で白紙になった。小さい頃親が撮ってくれた写真をアルバムごと捨て、小学校時代のランドセルを捨て、中学から高校になるまで少しずつ買い集めたお気に入りのアーティストのCDを売った。
思い出の次は各種の本。好きだった本もあまり読まなかった本も、一冊残らず古本屋に出して本棚は空になった。それから服。四季に応じてそろえていた服を、最低限着るものを残してほとんどゴミに出す。最後に電子機器。パソコンに古いゲーム機、目覚まし時計もスマホのアラーム機能を使うことが多かったのでもはや使っていない。これもリサイクル店で出せるものは出し、使えないものは捨てた。
それでも私の死後には様々な手続きがあるため、各種契約を整理できるものは整理して、印鑑と私のいなくなった後にしてほしいことをなるべく丁寧に書いてファイルに残す。
こうしてみると私が何者だったのかもよくわからないなと変な感慨に浸る。私について明日の朝残っているのは、この書き置きと、フォーマットでまっさらになったスマホだけ。私を示す記号はそのほとんどがなくなって、私は誰にとってもどこかの誰かになって、命を終える。
じゃあつまり、なんだ。力まなくて良かったのか。今さらそんな安堵が心の奥から染み出てくる。何かがうまくいかなくてもそれで良かったのだ。それはすべて過去になるし、私がお墓に入った後数年もすれば挫折ですらなく数十字に収まるエピソードになってしまう。
母はまーちゃんを探すだろう。意地悪な息子ではなくて、本当は私の代わりに生まれてくるはずだった良き理解者、愛しい優しい娘を。たとえそれが現実にいないとしても、母はYouTubeの動画や、テレビの画面の中にまーちゃんを見つけて愛するのかもしれない。
父もまあ、もちろん悲しむだろうけど、父にはちゃんと愛せる子供たちがいる。父に尊敬を向けるたくさんの人達がいる私がいなくてはいけないということはない。
ただ、仕事場には悪かったかな。しばらく人が足りなくなるだろう。ただ、欠員に敏感な職場なので幸い補充はすぐに入る。
不思議だ。こうなるずっと前、母が私を息子と認識できなくなり、生まれるはずだったまーちゃんを延々と探し始める前から、父が私の結婚の破談を期に私をいないもの扱いし始める前から、もう私は居なくても構わない人間になっていた。
私がいなかろうがこの家は回っていく。世の中は回っていく。
私はかけがえのない尊い人間では別になく、人間として生まれてきたので生命保険をかける対象になれたことが私の最大の価値だった。私の命と引き換えに家には保険金の3000万円が入る。それは私が食い潰し続けた両親の金を十分に補填しうるだろうか。いや、どのみち生きていればマイナスがかさむだけだから、ちゃんと行動できるうちに行動するのは大切なことだ。
すでに我が家の風呂桶には温かい湯が張ってある。最後の風呂掃除は至って普通で、なにも普段と違うところなどなかった。後で入るつもりだったように見えるとよいのだけれど。
あまり怖くないように、以前少し遠出して買ってきた睡眠導入剤と最後に飲もうと決めていた梅酒をお湯割りで飲んだ。そしてネクタイを上手に首に巻いてベッドの足に結びつける。体重がかかってほどけるの嫌だなあなんて考えがよぎって、それは杞憂かと自分でそれを笑う。
私は仕事終わりの格好をして、慎重にベッドに横になる。
そうしてわざと寝返りをうつようにすると柵のないベッドから簡単に身体が落ちた。
化繊の擦れる音が響いて、首に巻いたネクタイに体重がかかり容赦なく首を絞めて気道が細くなり、ついにふさがる。ここにきて苦しさより眠気が強いのは大変ありがたい。
目を閉じる。もう頑張らなくていいのだと言う確信で何とも言えない安らぎが体に染み渡る。
さよならを言う相手はいなかったので、心の中で自分自身に挨拶をした。
疲れたね。おやすみなさい。
いくつかのネガティブな出来事を繋ぎ合わせて書いた作品。こんな時もあったなという備忘録として残す。スーパーの売り場にBGMとして流れていた歌が、亡くなったその人の好きな歌だったのが引き金になってどっと溢れるように色々なことを思い出しその勢いで書いた。一応「風を悼む」のシリーズ内に収めようと思う。秋は良い季節なのだけど、悲しくて嫌いだ。私だけみんなに取り残されていくから。




