第7話 返礼の言葉
文化祭の熱気がすっかり冷め、校舎にはいつもの静けさが戻っていた。
夕方、片づけの音が止んだ昇降口には、湿った風とクチナシの残り香だけが漂っている。花はもう茶色くなり、香りも薄れかけていた。それでも澪は、その甘さに包まれるとあの日々を思い出す。
雨の日の傘。黒板の裏の水跡。中庭のベンチでの拒絶。そして、講堂で並んで歌った声。
その全部が重なって、胸の奥をじんと温めていた。
昇降口の庇の下で、遥斗が待っていた。ブレザーのボタンを一つ外し、眼鏡を軽く拭いている。夕陽が差し込んで、レンズの奥が一瞬だけ赤く光った。
「……宮原」
呼ばれて振り向く。
「この前は……助かった。ああいうの、慣れてないから」
「庇ったのは、当たり前だよ。だって――」
澪は一歩近づき、目をまっすぐに合わせた。
「私はずっと、ありがとうを言いたかったの」
彼の肩が小さく動いた。驚きと戸惑い。その沈黙に、澪は言葉を重ねた。
「傘も、黒板も。誰も気づかなくても、私は分かってる。だから……返したいの。ありがとうの返事を」
クチナシの香りが、最後の力を振り絞るように漂った。
澪はリボンの端を指でつまみ、ぎゅっと結び直す。声が震えないように、深く息を吸った。
「佐伯くんがいてくれるのが、うれしい。……好き、です」
遥斗は返事をすぐにはしなかった。けれど、視線を逸らさずに立っていた。
長い沈黙のあと、彼は眼鏡を押し上げ、小さく息を吐いた。
「……影のままでいいと思ってた。でも……」
ほんの少し、口元が緩む。
「君に見つけられるのなら、それでもいい」
庇を抜けた風が、花の香りをさらっていく。
薄くなった香りの代わりに、二人の間には確かな言葉が残った。
――ありがとう、の返礼として。




