第4話 中庭の影とクチナシ
六月の終わり、午後の光は強いのに、風はまだ湿っている。
授業を終えた生徒たちが昇降口へ流れていく中、澪はひとり中庭へ回り込んだ。煉瓦造りの旧館の前に、石のベンチと低い植え込みが並んでいる。そこには白い花がまだ残っていた。
クチナシ。甘くて重たい香りが、湿気を含んだ空気に混ざり、風に乗って漂ってくる。
白い花びらは雨に叩かれて端が少し茶色くなり、それでも強烈に香っていた。
澪は、昨日図書室で交わした小さな会話を思い出す。
――「別に」
短い声。否定でも肯定でもなかったあの言葉と、同じ時間に漂っていた匂い。偶然かもしれない。けれど、胸の奥で重なるものがあった。
ベンチに、遥斗が座っていた。眼鏡のレンズに夕陽がかすかに反射している。鞄を横に置き、ノートを閉じる音がした。
澪はためらいながら近づく。
「……やっぱり、あなたでしょ。黒板のことも、傘のことも」
彼は顔を上げたが、すぐに視線を逸らした。
「勘違いだよ」
声は低い。けれど、拒絶の硬さよりも、どこか疲れた響きが混じっていた。
「どうして隠すの?」
「俺は……目立ちたくないんだ」
はっきりと、しかし淡々とした言葉。
「誰も気づかなくていい。影でいる方が、楽だから」
クチナシの香りが強まる。白い花の群れは視線の端で明るく咲き、けれど彼の言葉は影を選んでいた。
澪は、返す言葉を探した。
「でも、私は気づいたよ」
思わずこぼれた声に、彼は一瞬だけ揺れるような表情を見せた。すぐに立ち上がり、鞄を肩に掛ける。
「忘れて」
それだけ残して、校舎の影に歩いていく。
残された澪の周囲には、甘い香りが漂っている。
白い花は、日暮れを待たずに静かに散りはじめていた。




