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第3話 見つける声

 放課後の図書室は、冷房の音と紙をめくる微かな音だけが漂っていた。

 窓の外には、夕陽に濡れた旧館の煉瓦。雨上がりの空気を透かして、蔦の葉がきらきら光を散らす。

 澪は参考書を広げて、数ページ進んだところで視線をそらした。


 昼休みに黒板に残した小さな「ありがとう」は、予想より早く消えていた。

 消すときに気づいたのは誰だったのだろう。

 自分以外に、あの裏の細い水の線を見ていた人がいるのだろうか。


 ページをめくる音が、隣の机から聞こえる。

 ふと顔を上げると、廊下側の席でひとりノートをとっている男子がいた。

 長めの前髪の下、黒縁の眼鏡。書きつける鉛筆の動きは淡々としていて、消しゴムのカスは指先で小さく集めてからまとめて払っている。

 それが、昨日黒板の棚で見た痕跡と重なる。整った動作。誰にも見られないことを前提にした、静かな仕草。


 澪は思わず声をかけていた。

「ねえ……昨日、黒板、掃除してた?」


 鉛筆の動きが止まった。

 眼鏡の奥の瞳が一度だけこちらを見て、それからノートに戻る。

「……別に」

 声は小さく、冷房の風にかき消されそうだった。否定でも、肯定でもない。

 澪は、返事の温度に不思議な安心を覚えた。ああ、やっぱり、と胸のどこかで答え合わせができた気がした。


「ありがとう、助かったの」

 今度ははっきりと言葉にした。

 彼は返さない。ただ、ノートの端に数字を並べ続ける。ペン先が走る音が、答えの代わりだった。


 沈黙が数秒続く。図書室の時計の針がひとつ進んだ。

 澪はそれ以上は追わず、ページに視線を落とした。

 けれど、頬の熱はなかなか引かなかった。


 帰り道、友人の麻衣と昇降口で合流した。

「ねえ麻衣。今日、黒板、すごくきれいになってなかった?」

「うん? そうだっけ。誰かマメな子がやってるんじゃない?」

 麻衣はリボンを結び直しながら、からかうように笑う。

「澪が気になるなら、犯人探ししよっか?」

「ち、違うよ。ただ……気になっただけ」

 曇った窓に二人の顔が映り込む。澪は慌てて否定したけれど、その笑顔の端に残った余韻が、彼女自身をごまかしきれなかった。


 図書室で聞いた小さな「別に」。

 あの声が、冷たいはずの冷房の風と一緒に、心のどこかを温め続けていた。

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