第2話 黒板の裏
翌日の午前、澪は白い半袖ブラウスで登校した。冷房の効いた最新棟は乾いた風が回っていて、熱の残滓を撫でとってくれる。保健室で体温を測ったあと、「無理しないでね」と言われて教室に戻る。
鞄の中には、黒い長傘。柄の木に、まだ雨の記憶がひそんでいる。昼休みになったら旧館の事務に返しに行こう――そう決めて、彼女は席に着いた。
一限と二限の合間、黒板の端に目が止まる。
昨日、誰かがチョークで描いた落書きがあったはずだ。くすんだ星と、意味のない顔文字。澪はそれがあまり好きではなく、休み時間に消そうとして、消しゴムみたいに丸まった黒板消しが粉を撒き散らすのに辟易した記憶がある。
いま、そこはきれいだ。黒板の縁の溝まで、粉が残っていない。黒板消しも、布の毛足がふわりと整っている。
斜めの席の子に尋ねると、首を振られた。「さっきからそんな感じだったよ」
昼、澪は旧館へ向かった。自動ドアを抜けた途端、外の湿気にふれて眼鏡が白く曇った子にすれ違う。彼は少し立ち止まって、レンズの曇りを拭ってから、こちらを見ずに歩き出した。
澪は、黒い傘を胸に抱き直す。煉瓦の壁は雨を吸って色を濃くしている。蔦の葉が光を弾いて、滴が石畳に小さな円を次々と描いていた。
事務室で傘を差し出すと、女性の職員が「ありがとうございます。共同傘、助かります」とにこやかに受け取ってくれた。
「これ、昨日、借りた方に……」と澪が言いかけると、職員はやんわり首を傾げる。
「どなたか分からないんです。雨の日は皆さんで使うので。お気持ちだけで」
ありがとうございます、の言葉がガラス窓の外の雨音に混ざる。澪は小さく頭を下げ、旧館の重いドアを押し返した。
午後の授業。冷房の風が一定に吹いて、窓の外の音は遠い。
先生が黒板に数式を書き、振り返って「ここまでいいか」と言った瞬間、澪の視線はまた板書の縁に吸い寄せられた。
黒板の下、チョークやマグネットを置く長い棚――その奥、ほんのわずかに水拭きの跡が斜めに残っている。乾ききっていない輪郭が、午後の光で薄金色に縁取られて見えた。
黒板の右側も、左側も。手の届きにくい角まで、誰かが布で撫でたように整っている。黒板消しの木の枠には、濡らして絞ったばかりの布の匂いが微かに宿っていた。
誰が、いつ。
思い浮かぶのは、昨日の夕方の、昇降口の気配。
「気をつけて」と、雨に削られず届いた短い声。
顔は、思い出せない。眼鏡の曇り越しに見たような、ぼやけた輪郭。黒い傘の布越しに響いていた雨粒の音といっしょに、記憶のどこかに沈んでいる。
澪は休み時間に、黒板の端へ歩み寄った。
チョークの白粉は、指先につかない。代わりに、薄い水の名残が指に冷たく触れた。
黒板の反対側へ手を伸ばす。教室の黒板は引き戸式で、片側を少し動かすと裏面が覗く。そこにも何もない。昨日見た顔文字の痕跡も、粉の帯も。
ただ、裏面の金具のあたりに、細い線が一本ついていた。水拭きの布の幅よりもずっと細く、指で触れると消える、一本の綺麗な線。
左から右へ。利き手の癖のように、一定の速さで引かれた痕。
丁寧な仕事の手付きが、そのまま残っている気がした。
席に戻ると、前の列の子が振り向いた。
「宮原、もう大丈夫?」
「うん。昨日はごめん」
「文化祭の係、どうする? ピアノ伴奏、まだ決まってないらしいよ」
へえ、と相槌を打ちながら、澪の視線は自然と教室の片隅を探っていた。
窓際、冷風口の真下。廊下側の一番後ろ。掲示板のピンをまっすぐに揃えている子。プリントの端を綺麗に重ねて黒板の棚に戻す子。
そういう動作を、誰も見ないときにしている誰か。
放課後、教室に残って連絡事項を書き直す。「明日、合唱のパート分け」。
チョークを置くと、指先に白が残る。黒板消しに手を伸ばしかけて、澪はやめた。
そのかわり、黒板の端に、ほんの小さな文字で一行だけ書く。
――ありがとう。
すぐに消える場所に、すぐに消える言葉で。
それで十分だと思った。
消える前に、誰かの目にふれるなら、なおのこと。
帰り道、雨は小降りになっていた。
最新棟の自動ドアが開き、外気が頬を撫でる。眼鏡は曇らない。
澪は、旧館の方へ一度だけ目をやる。煉瓦にまとわりついた蔦の葉先から、最後の雫がひとつ、石畳に落ちるのが見えた。
明日、また確かめよう。
黒板の裏に、今日の水の線は残っているだろうか。
そして、あの短い声の持ち主は、どこにいるのだろう。




