美しきエジプトの王妃・ネフェルティティから学んだこと
ネフェルティティ、彼女は古代エジプトの歴史において非常に重要な人物です。
ネフェルティティは、紀元前14世紀頃、エジプト新王国第18王朝のファラオ、アクエンアテン(アメンホテプ4世)の正妃でした。彼女の名前は「美しい者がやってきた」という意味を持ち、その名の通り、類まれな美貌の持ち主であったと伝えられています。
生い立ちと出自
ネフェルティティの正確な出自については諸説ありますが、ミタンニ王国の王女タドゥキパであるという説や、エジプトの貴族出身であるという説などがあります。しかし、彼女がアクエンアテンの治世において非常に重要な役割を果たしたことは間違いありません。
アマルナ革命と宗教改革
ネフェルティティは、夫のアクエンアテンが主導した宗教改革、通称「アマルナ革命」において中心的な役割を担いました。この改革では、従来の多神教信仰を廃止し、太陽神アテンのみを崇拝する一神教へと移行しようとしました。首都もテーベから、アテン神を祀るために新たに建設されたアケトアテン(現在のアマルナ)へと遷都されました。
ネフェルティティは、この新しい宗教において、アクエンアテンと共にアテン神の崇拝を推進し、神殿での儀式にも積極的に参加しました。彼女は単なる王妃ではなく、アクエンアテンと並ぶほどの権力と影響力を持っていたと考えられています。多くのレリーフや彫像には、アクエンアテンとネフェルティティがアテン神から祝福を受ける姿が描かれており、その親密な関係と共同統治のような側面が示唆されています。
その後の消息と謎
アクエンアテンの治世の終わり頃、ネフェルティティに関する記録が突然途絶えます。彼女がいつ、どのようにして亡くなったのか、あるいは権力を失ったのかについては、いまだに多くの謎が残されています。一説には、彼女がスメンクカーラーという名でファラオとして即位したという説や、息子(または義理の息子)であるツタンカーメンの摂政を務めたという説もありますが、確固たる証拠は見つかっていません。
ネフェルティティの胸像
ネフェルティティの最も有名な遺物は、ベルリンのエジプト博物館に所蔵されている彩色された胸像です。この胸像は、彼女の完璧なまでの美しさと、古代エジプト美術の高度な技術を今に伝えています。この胸像の発見は、ネフェルティティの存在を世界に知らしめ、彼女が古代エジプトにおける最も象徴的な人物の一人となるきっかけとなりました。
ネフェルティティは、その美しさだけでなく、宗教改革という歴史的な転換期に生きた女性として、また、その後の消息が謎に包まれていることから、現在でも多くの研究者や人々の関心を集め続けています。
彼女から学んだことは1つ。
『優雅さと威厳は両立せよ。最高の美なり。』
私は世界史の授業で彼女の胸像を知りました。
胸像に見られる高くそびえる独特の青い冠や、繊細な宝飾品は、彼女が当時の最新のファッションや装飾品を身につけていたことを示唆しています。これらの要素は、彼女の持つ高貴な身分と、洗練された趣味を表現していると言えるでしょう。彼女の姿勢や表情には、堂々とした威厳と同時に、女性らしい優雅さが漂っています。
とある教諭は彼女こそ世界三大美女に含まれれば良かったと述べておりました。彼女の存在が明らかになったのは1912年とわりと最近である。クレオパトラは自害、楊貴妃は処刑、小野小町は老いて落ちぶれたとされていますがネフェルティティはその後の消息が不明らしく、『語り継がれるに値する美しさ』ではないという話をしてくれました。
いったいネフェルティティはどんな結末を辿ったのか、その結末が悲撃のヒロインでは無くて愛するものに囲まれて逝ったのならいいなと私は思います。