古代エジプトの女傑・クレオパトラ7世から学んだこと
クレオパトラの生涯:ローマとエジプトに翻弄された女王
クレオパトラ7世(紀元前69年 - 紀元前30年)は、古代エジプトのプトレマイオス朝最後の女王です。彼女の人生は、絶え間ない権力闘争と、ローマの二人の偉大な指導者とのロマンスに彩られ、劇的な最期を迎えました。
幼少期と即位
クレオパトラは、父プトレマイオス12世の娘として生まれました。幼い頃から複数の言語を操り、知性と教養を身につけたとされます。父の死後、慣習に従って弟のプトレマイオス13世と共同でエジプトの王位に就きますが、実権を巡る争いがすぐに勃発しました。
カエサルとの出会い
ローマで内戦が起こり、追われたポンペイウスがエジプトに逃げ込んできます。しかし、プトレマイオス13世はポンペイウスを殺害し、このことがローマの支配者であるユリウス・カエサルをエジプトに呼び寄せるきっかけとなります。
クレオパトラは、弟との権力争いを有利に進めるため、絨毯にくるまってカエサルの元に現れるという大胆な行動に出ました。彼女の美貌と知性、そして巧みな話術にカエサルは魅了され、クレオパトラを支持。弟を退け、彼女は単独でエジプトの実権を握ることになります。カエサルとの間には、息子カエサリオンが生まれました。
アントニウスとの関係
カエサルがローマで暗殺された後、ローマは再び混乱に陥ります。カエサルの後継者たちが争う中で、東方を担当することになったのがマルクス・アントニウスでした。
アントニウスは、エジプトの富と支援を得るため、クレオパトラを呼び出します。クレオパトラは豪華な船で現れ、アントニウスをたちまち虜にしました。二人は深く愛し合い、政治的な同盟関係を築きます。彼らの間には3人の子供が生まれ、クレオパトラはアントニウスを通じてエジプトの領土を拡大しました。
悲劇的な最期
しかし、アントニウスとオクタヴィアヌス(カエサルの養子で、後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)の対立は避けられなくなり、紀元前31年にアクティウムの海戦で決着を迎えます。この戦いでアントニウスとクレオパトラの連合軍は、オクタヴィアヌス軍に大敗を喫しました。
敗戦後、エジプトに戻ったアントニウスは、クレオパトラが死んだという誤報を聞き、絶望して自ら命を絶ちます。
アントニウスの死後、クレオパトラはローマ軍の捕虜となります。オクタヴィアヌスは彼女をローマでの凱旋式で引き回し、見せ物にするつもりでした。しかし、誇り高いクレオパトラは、そのような屈辱を断固拒否します。伝えられるところによると、彼女は隠し持っていた毒蛇に身を噛ませ、自ら命を絶ったとされています。
クレオパトラの生涯は、愛、権力、そして悲劇が交錯する物語です。彼女の死とともに、300年近く続いたプトレマイオス朝エジプトは終わりを告げ、エジプトはローマ帝国の属州となりました。
私が彼女から学んだことは2つ。
1つ目、『勉学は時に暴力に勝る』。2つ目、『愛する者に愛してると告げよ。失ってからでは告げられぬ』
クレオパトラは語彙力と柔軟な思考、適応力に優れていました。そして、何ヵ国もの言葉を操ったとも言い伝えられています。
とある教諭が「クレオパトラはずば抜けて美しかったわけではない」と言っていました。そしてその方は「たとえ容姿が美しく無くとも知性や語彙力、行動力に優れていればクレオパトラのようになれる」と語っていました。
そして愛の悲劇もその教諭に聞きました。
『クレオパトラは「私は死んだと伝えて」とアントニウスに伝えるよう言い、遺跡に隠れた。
従者はアントニウスに「クレオパトラ様は死んだ」とそのまま伝えた。それを真に受けたアントニウスは自殺。クレオパトラは嘆いたと。
そしてクレオパトラはオクタヴィヌス軍に捕らえられ、見世物になることを拒否した。
クレオパトラはエジプトコブラに胸を噛ませて自殺した。』
恋人を失うことはいつの時代も悲劇だ。
愛する者に最期「愛してる」と告げられなかった事、後追いしてしまったこと、全て彼女の策略ではなかったことを願いたいと私は思った。