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『切り捨て論者たちへ告ぐ ―― 国家の名のもとに人間を捨てる覚悟はあるか』

作者: 小川敦人

『切り捨て論者たちへ告ぐ ―― 国家の名のもとに人間を捨てる覚悟はあるか』


## 政治的無関心という幻想

かつて私は「政治に無関心」という立場を装っていた。それは一種の知的なポーズであり、自分を政治的対立から守るための防御機制でもあった。表面上は「どんな政治的立場も尊重する」という寛容さを装いながら、実際には自分の立場を明確にすることから逃げていたのだ。

しかし、近年の災害報道とそれに対する一部の「論客」の反応を見るにつけ、そのような無関心を維持することの不誠実さを痛感している。SNSやメディアで耳にする「被災地への支援は非効率的だ」「限られた資源を人口密集地に集中すべきだ」という主張は、冷徹な経済合理主義を装いながら、実は国家の本質を根本から誤解している。


## 「合理性」という名の非人間性

「被災地切り捨て論」の根底にあるのは、人間を単なる経済的資源として捉える視点だ。彼らの論理では、人口減少地域や経済的生産性の低い地域への投資は「非効率」であり、国家予算は「費用対効果」の高い大都市圏に集中すべきだという。

だが、この論理には決定的な欠陥がある。国家とは単なる企業ではなく、そこに住むすべての人々の生存と尊厳を守るための共同体である。国家の第一義的な目的は、GDPの最大化ではなく、すべての国民の基本的人権と生存権の保障にある。

被災地を「非効率」という理由で見捨てる発想は、国家の存在理由を根本から否定するものだ。そこには、人間を「生産性」という単一の尺度でしか評価しない、非人間的な思想が潜んでいる。


## 桐島聡という存在から考える責任

最近亡くなった桐島聡について考えることがある。彼は過激派として長年逃亡生活を送り、その人生の大半を「逃げる」ことに費やした。彼の選んだ道は、私が賛同できるものではない。しかし、彼が自らの信念に対して人生という最も貴重なものを賭けたことには、ある種の覚悟を感じる。

対照的に、現代のいわゆる「インフルエンサー」たちの多くは、どれほどの責任を負っているのだろうか。彼らは安全な環境でキーボードを叩き、「合理性」や「効率」という言葉で被災者を切り捨てる主張をする。しかし、その言葉がどれほどの重みを持ち、どれほどの人々の心を傷つけるかについて、真剣に考えているようには見えない。

発言には責任が伴う。特に大きな影響力を持つ人間の言葉は、時に政策を動かし、人々の命運を左右することさえある。桐島のような極端な例を持ち出すまでもなく、言論にはそれに見合った責任が伴うのだ。


## 国家という共同体の本質

被災地切り捨て論者に最も欠けているのは、国家とは何かについての本質的な理解だ。彼らは国家を単なる経済単位、あるいは企業のようなものとして捉えている。しかし、国家とはそれ以上の存在だ。

国家とは、共に生きることを選んだ人々の共同体である。それは単に経済的便益を共有するためだけでなく、共に困難を乗り越え、互いの尊厳を守るための枠組みだ。国民国家の誕生以来、この理念は様々な形で試され、時に歪められてきたが、その根本にある「相互扶助」の精神は変わらない。

日本国憲法が保障する生存権や幸福追求権は、この国家観の延長線上にある。これらの権利は、経済的「効率」によって制限されるものではない。むしろ、経済活動の目的そのものが、これらの権利の実現にあるはずだ。


## 災害と国家の責務

自然災害は、国家の本質が最も鮮明に問われる瞬間である。地震や豪雨、津波といった災害は、人間の力ではコントロールできない。被災するのは「非効率」だからでも、「経済的価値が低い」からでもない。それは単に、その場所に生きていたという理由だけだ。

国家の最も基本的な責務は、このような不可抗力によって苦しむ国民を救い、その生活再建を支援することにある。これは「慈善」ではなく、国家という共同体の構成員が互いに対して負う基本的な義務だ。

「被災地に住み続けるべきではない」「非効率な復興は避けるべき」という主張は、表面上は「合理的」に聞こえるかもしれない。しかし、その裏には「一部の人々の生存権や故郷に住む権利は、経済的合理性の前には無価値だ」という非人道的な価値観が潜んでいる。


## 国土と国民の不可分性

日本という国は、その領土と人々によって成り立っている。北海道から沖縄まで、都会から過疎地まで、すべての土地とそこに住む人々が「日本」を構成している。

被災地切り捨て論は、実質的に「一部の国土と国民は捨てても構わない」と主張しているに等しい。これは国家の一体性を根本から否定する発想だ。もし経済的「効率」だけを追求するなら、なぜ国境を維持する必要があるのか。なぜ国民という概念が必要なのか。こうした論理の延長線上には、国家の解体しか存在しない。


## 連帯という価値

被災地支援の本質は「連帯」にある。それは単なる感情的な結びつきではなく、国家という共同体を維持するための必須条件だ。

歴史を振り返れば、あらゆる地域が栄枯盛衰を経験してきた。かつての辺境が中心になり、かつての中心が周縁になることは珍しくない。今日の「非効率」な地域は、かつては日本の経済や文化を支え、未来の可能性を秘めている。

自分が住む地域が安全で豊かだからといって、他の地域の苦難に無関心でいられるほど、私たちの社会は安定していない。今日の「効率的」な大都市も、明日は災害の被害者になりうる。その時、「非効率だから」と見捨てられることを望む人がいるだろうか。


## インフルエンサーの責任


現代のSNS時代において、「インフルエンサー」と呼ばれる人々の発言力は計り知れない。彼らの一言が、何万、何十万の人々の思考に影響を与える。

そうした影響力を持ちながら、被災者の苦しみを軽視し、「切り捨て」を主張することの責任の重さを、彼らはどれほど自覚しているのだろうか。キーボードの向こう側には、故郷を失い、家族を失い、それでも再建に向けて必死に努力している人々がいる。

桐島聡のような極端な例を引き合いに出すまでもなく、公の場で発言することには責任が伴う。特に弱者や被災者について語る時、その言葉がどれほどの重みを持つかを忘れてはならない。


## 右翼でも国粋主義でもなく

ここまで述べてきた私の主張は、右翼思想や国粋主義とは本質的に異なる。私は「日本が特別だから」被災地を支援すべきだと言っているのではない。また、無条件に「国家は正しい」と主張しているわけでもない。

むしろ、私が訴えたいのは、国家という枠組みが持つべき最低限の人道的価値についてだ。それは国境を越えた普遍的な価値であり、すべての人間の尊厳と生存権を尊重するという原則だ。

被災地支援は「右か左か」の政治的立場で判断されるべき問題ではない。それは単に、困難に直面した同胞を支える、人間として最も基本的な倫理の問題だ。


## 結びに代えて

政治的無関心を装っていた私が、なぜこのようなエッセイを書くに至ったのか。それは、「合理性」や「効率」という言葉で人々の苦しみを軽視する風潮に、もはや沈黙していられなくなったからだ。

国家とは何か。それは単なる経済単位ではなく、共に生き、共に困難を乗り越えるための共同体だ。その最も基本的な役割は、すべての構成員の生存と尊厳を守ることにある。

被災地を切り捨てるような主張が「合理的」に聞こえるのであれば、その「合理性」の基準自体を疑うべきだ。人間の価値は、経済的生産性だけで測れるものではない。一人ひとりのかけがえのない人生と、その人が育んできた地域との結びつきには、数字では表せない価値がある。

最後に強調したい。これは決して右翼的、国粋主義的な主張ではない。むしろ、国家という共同体が持つべき最低限の人道的責任について述べたものだ。被災地支援は特別な「恩恵」ではなく、国家という共同体の構成員として当然の権利であり義務なのだ。

インフルエンサーたちには、その影響力に見合った責任ある発言を求めたい。そして私たち一人ひとりも、「合理性」という言葉に隠れた非人間性に敏感になり、真の意味での連帯の価値を再確認する必要がある。それこそが、民主的で人道的な国家の姿ではないだろうか。

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― 新着の感想 ―
本質的で簡潔な文章ですね。説得力もあります。
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