87話 デュラハン・ナイトメア(5)
荒い息遣いが、戦場に響く。
マーガスは片膝をつき、全身から滴り落ちる血が地面に小さな水たまりを作っていた。
アディラウスも同様だった。その誇り高き帝国騎士の姿は、今や血濡れた戦士と化していた。
「はぁ...はぁ...こんな化け物...見たことがない...」
マーガスの声には、かすかな震えが混じっていた。
その横でアディラウスが重く頷く。
「数分...たったの数分でここまで...」
対するデュラハン・ナイトメアは、まるで戦闘などしていなかったかのように佇んでいた。
その漆黒の鎧には、傷一つついていない。
しかし、二人の剣士の瞳は決して死んでいなかった。
それどころか、その目には確かな闘志が宿っていた。
「こんなところで...終わるわけにはいかん...!」
アディラウスの必死の形相で吠える
デュラハン・ナイトメアから、明らかな苛立ちの気配が漏れ出ていた。
ダークレゾナンスという切り札を使ったにも関わらず、敵を完全に仕留められていない。
それどころか、その結界すら破られてしまった。
漆黒の鎧が、ゆっくりと辺りを見渡す。
そして、その意識が一点に固定される。
異世界から来た小さな少年。
全ては彼が狂わせていた。
強大な剣士たちより、帝国の守護モンスターより、真っ先に消さねばならなかったのは、この矮小な存在だった。
デュラハン・ナイトメアの全神経が、遥斗に向けられる。
しかし、その時、漆黒の鎧は異変に気付く。
(...何だ、この感覚は)
目の前の少年から放たれる雰囲気が、先ほどまでとは明らかに違っていのだ。
その瞳には、どこか異質なものが宿っている。
戸惑いがデュラハン・ナイトメアを包む。
(同じ存在なのか...?)
その迷いを振り払うように、デュラハン・ナイトメアがゆらりと動き出す。
最初の一歩は、まるでスローモーションのように緩やかだった。
しかし、その歩みは一歩進むごとに加速していく。
やがて、その姿は残像となって空気を切り裂いていった。
「くっ...!」
マーガスが必死に立ち上がろうとする。
しかし、デュラハン・ナイトメアの最初の緩やかな動きは、完璧なフェイントとなっており、彼らの動きは、致命的に遅れていた。
「遥斗おぉぉぉ!」
マーガスの悲痛な叫びが、夜空に木霊する。
遥斗は静かにマジックバックに手を伸ばす。
取り出されたのは、中級HP回復ポーション。
その時には既に、デュラハン・ナイトメアの刃が遥斗の目の前で閃いていた。
躱すことなど、もはや不可能な間合い。
しかし、遥斗の顔には穏やかな微笑みが浮かぶ。
彼は軽やかにポーションを投げ上げた。
その瞬間、デュラハン・ナイトメアの剣がポーションごと遥斗を両断する。
確かな手応え。漆黒の刀身が、確実に少年の肉体を切り裂いていた。
遥斗の体が、ゆっくりと前のめりに倒れこむ。
デュラハン・ナイトメアは、その背中を通り過ぎていく。
勝利を確信した。
しかし―
遥斗の倒れ込む動作が、そのまま前方への駆け出しへと変わった。
手には、新たな中級HP回復ポーションが握られている。
「思ったより上手くいったね...」
遥斗の声が静かに響く。
走る勢いそのままポーションを投げる。
彼の手から放たれたポーションが、仲間たちの上で次々に弾けた。
緑色の光が彼らを包み込み、深い傷が癒えていく。
(何...だと...?)
デュラハン・ナイトメアの戸惑いが、声無き声となって漏れ出す。
確かに仕留めた。その感触は間違いようがなかった。
しかし、目の前の光景は、その確信を完全に覆していた。
漆黒の鎧が、明らかな困惑を示す。
戦場に再び緊張が走る。
月明かりの下、デュラハン・ナイトメアと遥斗が向かい合う。
その瞳には、もはや先ほどまでの恐れの色は微塵も残っていなかった。
「遥斗殿...どうやってあの斬撃を躱したのですか?」
アディラウスの声には、畏怖と尊敬が混ざっていた。
「いえ、躱してませんよ?」
遥斗の返答は、まるで天気の話でもするかのように淡々としていた。
「あの剣で、最初に回復ポーションを切らせました」
遥斗は漆黒の剣を指差す。
「見てください。刀身にはさっき投げたポーションが付着しています」
全員の視線が、月明かりに濡れた刀身に向けられる。
確かに、液体が刃を伝っているのが見えた。
「HP回復ポーションは生命のないものには効かない。だから刀身に付いたポーションは効果が発揮されず残ったままだったんです」
遥斗の説明は続く。
「あいつは切ったその瞬間に、僕を即座に回復させたんですよ」
遥斗はくるりと回って見せる。
「ほら、この通り」
「しかし、それは...」
アディラウスの声が震える。
「ポーションは使用が僅かでも効果は同じなんですよね、実は」
遥斗の声には、かつての実験で得た確信が込められていた。
「まぁ、こんな単純なやり方、何度も通用しませんけど」
アディラウスは遥斗を見つめる。
理屈は分かる。しかし、あの死を確信させる一撃の瞬間に、こんな賭けに出る精神は常人のものではない。
しかも、その表情は普段と変わらないというのに、どこか感情が欠落しているような...
(本当に人間なのか...?)
一瞬、背筋が凍るような疑念が頭をよぎる。
しかし、アディラウスは首を振って、その考えを払拭した。
「さあ、みんな反撃といこう」
遥斗の声が戦場に響く。その言葉に、全員が呼応する。
「アルケミック!」
マーガスの詠唱と共に、銀色に輝く弓が具現化される。
その弦には、既に魔力を帯びた矢が番えられていた。
「ファストアクセル!」
アディラウスの体が青白い光に包まれる。
彼は躊躇なく、加速のポーションに更なる加速の魔法を重ねていく。
「グォォォ!」
グリフォンガードは力強く羽ばたき、夜空へと舞い上がる。
その鋭い眼光は、既に獲物を捉えていた。
遥斗は静かに魔力銃を構える。
その瞳には、もはや迷いの色は微塵も残っていない。
「ファイア!」
遥斗の掛け声と共に、一斉攻撃が始まった。