68話 ジンの指輪
夕暮れ時、ルシウスの研究所の扉が開かれた。遥斗とアリアが入ってくると、そこにはすでにエレナとトムの姿があった。
研究所内は、いつものように魔道具や実験器具が所狭しと並べられ、独特の雰囲気を醸し出している。
ルシウスが振り返り、にこやかに二人を迎えた。
「やあ、遥斗くん、アリア。よく来てくれた。ちょうどスタンピードの話で盛り上がっていたところだよ」
エレナの目が遥斗を見つけると、パッと明るくなった。
「遥斗くん!戻ってきたのね!」
遥斗は弱々しい笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「やあ、みんな」
ルシウスは目を輝かせながら遥斗に近づいた。
「遥斗くん、君の経験した『奈落の破壊者』のことを詳しく聞かせてくれないかい?錬金術的な観点から非常に興味深いんだ」
「どうしたの遥斗くん?何か良くないことでもあったの?」
遥斗の様子がいつもと違うことにエレナはすぐに気づいた。彼女は心配そうに遥斗の顔を覗き込んだ。
遥斗は言葉に詰まり、黙ったままだった。アリアが深いため息をついて、状況を説明し始めた。
「実はな...」
アリアが話し終えると、部屋中が重苦しい空気に包まれた。エレナの顔が怒りで真っ赤になった。
「なんてことを!そんな危険な任務を遥斗くんに押し付けるなんて!帝国と王国は100年も前から犬猿の仲よ。生きて戻れるかどうかも分からないわ!」
エレナは立ち上がり、必死の形相で叫んだ。
「私の叔父は公爵よ。すぐに会いに行って、この任務を取りやめてもらうわ!」
ルシウスが静かに、しかし確固とした口調で言った。
「おそらく無理だろう。王家としても、苦渋の決断だったはずだ。この状況を打開するには、遥斗くんの力が必要なんだ」
エレナの目に涙が溢れ出した。
「でも...でも...」
遥斗は力のない目でエレナを見つめ、優しく言った。
「きっと大丈夫だよ、エレナ。心配しないで」
そんな遥斗の言葉を聞いて、エレナは決意に満ちた表情になった。
「私も行くわ!遥斗くんを一人にはさせない!」
トムは驚いて声を上げた。
「エレナ、君まで!?」
そしてエレナはアリアの方を向いて懇願した。
「アリアさん、シルバーファングにも同行してもらえませんか?」
「すまない。私たちは今、ギルドから王都の警備を頼まれているんだ。軍が壊滅状態で、王都の治安維持とモンスター駆除をしなければならない」
アリアは唇を噛みしめ、苦しそうな表情で答えた。
しかし、突然アリアの目に閃きが走った。
「そうだ!ちょっと待ってろ!」
そう言うと、アリアは部屋を飛び出していった。
アリアがいなくなった後、ルシウスが心配そうに遥斗に尋ねた。
「遥斗くん、本当に大丈夫かい?」
遥斗は虚ろな目で答える。
「はい、大丈夫ですよ。ルシウスさん」
遥斗のあまりにひどい状態を見ていられなかったルシウスは、少し考え込んだ後言った。
「こちらに来なさい」
ルシウスは3人を隣の部屋に案内した。そこで彼は机の引き出しから大事そうに小箱を取り出し、中から一つの指輪を取り出した。
「これは『ジンの指輪』という魔道具だ。魔力を込めると風を操ることができる」
ルシウスは指輪を遥斗に差し出した。それを見たトムが驚きの声を上げた。
「まさか...!それは伝説級のアイテムじゃないですか!」
遥斗は困惑した表情で言った。
「そんな貴重なものを、僕には...」
「ははは、あげるとは言っていないよ。必ず生きて返しに来てくれ」
ジンの指輪を見た遥斗の目に、久しぶりに好奇心の光が宿った。彼は早速、隣の実験室で指輪を試してみることにした。
魔力を指輪に流すと、遥斗の目の前で空気が微かに揺らぎ始めた。それは最初、ほんの僅かな動きに過ぎなかったが、徐々に目に見える渦となっていった。
遥斗は楽しそうな表情で、この現象を観察した。渦は直径30センチほどで、ゆっくりと回転している。風の音はかすかに聞こえる程度で、周囲の物を動かすほどの力はない。
「これは...」遥斗は小さく呟いた。
「空気の分子を直接操作しているような感じだ」
彼は指輪に流す魔力の量を少し増やしてみた。すると、渦の回転速度が若干上がり、直径も40センチほどに広がった。
しかし、それ以上大きくすることはできないようだった。
遥斗は手を渦に近づけてみた。微かな風を感じるが、指を吹き飛ばすほどの力はない。せいぜい、紙を少し揺らす程度の風力だ。
「なるほど」遥斗は考え込むように言った。
「大きな力は出せないけど、繊細な操作が可能なんだ」
彼は実験的に、渦の形を変えてみようとした。集中して魔力の流し方を変えると、渦は楕円形に変形した。
さらに試みると、蛇行する細い気流を作ることもできた。
「これなら...」遥斗の目が輝いた。
「小さな物体を浮かせたり、特定の場所に風を送ったりできるかもしれない」
彼は近くにあった羽根を取り、渦の中に放った。羽根はゆっくりと渦に乗って回転し始めた。遥斗は魔力を調整し、羽根を渦の中で静止させることに成功した。
「すごい...空気の密度や流れを精密に制御しているんだ」遥斗は小さく笑った。
危険な任務を控えた不安も、一瞬忘れてしまうほどだった。
その時、突然研究所の扉が開いた。アリアが戻ってきたのだ。しかし、彼女の肩には意識を失ったマーガスが担がれていた。
「急な話だが...」アリアは息を切らしながら言った。
「こいつを遥斗に同行させる」
部屋中が驚きの声で満たされた。エレナが急いでマーガスの状態を確認する。
「大丈夫なの?怪我はないわよね?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと眠らせただけさ。説明するのに時間がかかりそうだったからな」
「アリア、それは少々乱暴ではないかね?」
ルシウスが眉をひそめた。
アリアは真剣な表情で答えた。
「そんなこと言ってる場合か。遥斗を一人で行かせるわけにはいかないだろ。こいつなら十分な戦力になるし、私のいう事なら何でも聞くしな!」
「マ、マーガスが行くなら僕も行きます!」
急に大声で、トムが震えながら叫んだ。
エレナが心配そうにトムを諫めた。
「危険すぎるわ。あなたまでそんなことする必要はないと思うの」
「ぼ、僕だって遥斗の友達なんだ!放ってはおけないんだ!」
拳を握りしめ、ぎゅっと目をつぶりながら、またトムは叫んだ。
「みんな、ありがとう。僕...必ず、無事に戻ってくるよ」
遥斗は力強く言った。もう遥斗の瞳の中には絶望の影は無かった。