538話 人間として
「魂の……真実?」
白い空間の中で、遥斗は母の言葉を反芻した。
加奈は小さく頷き、空中に指で図を描くように説明を始める。
「この世界ではね、肉体が滅んでも、魂という『情報』はすぐには消えないの。魔力が存在する限り、魂はその形を維持し続けるわ」
加奈の説明によれば、この世界特有の現象として、魔力が記憶媒体の役割を果たしているらしい。
肉体がハードウェアだとすれば、魂はソフトウェア。
ハードが壊れても、電源さえ供給されていれば、データはクラウドに残るようなものだ。
「でも、魔力は存在するだけで消耗していく。だから魂たちは『イド』という、エネルギーだけの世界に逃げ込むの。そうすることで、魂は永遠に残り続ける」
イド。
精神の海。
集合的無意識。
遥斗はその単語を知っていた。
この世界の根幹を成す概念。
魂の行きつく先。
「この世界にとって、肉体の死は完全なる死ではないの。……少なくとも、私が知る限り」
加奈の表情が少しだけ陰った。
彼女はユグドラシルと融合し、500年もの間、そのイドに触れ続けてきた。
半分生きて、半分死んでいるような状態で、世界のシステムを理解するに至ったのだという。
「イドにある魂の多くは、静かに眠っているわ。でもね、中には肉体の復活を強く望むものたちが現れたの。現世への未練、恨み、執着……そういった強い情念を持つ魂たちが」
本来なら、魂はイドの中で休息し、生前の情報を失う代わりに新たな肉体と一つになり、循環していく。
それが輪廻だ。
しかし、強い魔力とエゴを持つ魂たちは、情報を維持したまま——つまり「自分」のまま、再び肉体を得ようとした。
「身体を再構築するには莫大なエネルギーが必要なの。だから彼らは考えたわ。『世界そのものを自分たちの身体にすればいい』って」
「世界を……身体に?」
「そう。その歪んだ想いは集まり、やがて一つの巨大な人格のようになっていった。私はそれを、仮に『クロノス』と呼んでいたわ」
クロノス。
時の神であり、子を食らう神。
「クロノスは力を持ち、ついには生者の世界に干渉するシステムを作り上げた。……それが『スキル』や『魔法』、『レベル』そして『職業』よ」
遥斗の背筋が凍った。
自分たちが恩恵を受けていた力。
レベルアップ、スキル習得。
そのすべてが、クロノスの掌の上だったというのか。
「人に職業を与え、戦わせ、感情を昂らせる。そうして練り上げられた力は発動と共に世界を削る。エネルギーとなった世界は、イドに回収される。……モンスターを発生させたのも彼らよ。すべては、より強い力を育てるために」
戦慄すべき真実。
異世界召喚も、闇討伐も、すべてはクロノスという怪物を肥え太らせるためのマッチポンプ。
そして、何よりの障害であったユグドラシル、つまり加奈の排除。
遠大すぎる計画。
涼介も、遥斗も、踊らされていたのだ。
「もちろん、これに反対する魂も多数いたわ。イドの魂は一枚岩ではないの。……私に力を貸してくれていたのは、そういった静寂を好む魂たちだった」
加奈は少し悲しそうに微笑んだ。
彼女はずっと、そのクロノスに抗い、ユグドラシルとして世界を守ろうとしていたのだ。
「母さんは……どうするの?イドに行くの?」
遥斗は尋ねた。
もしそうなら、自分も一緒に行きたい。
加奈は小首をかしげ、どこか遠くを指さした。
「うーん、イドがあの状態じゃね……」
彼女の指差す先には、イメージとして投影された「外」の惨状があった。
女神と化したクロノスが顕現し、イドの扉をこじ開け、異形の天使たちが溢れ出している地獄絵図。
イドの平穏は崩れ、今はただの悪意の噴出孔となっている。
「消滅、になっちゃうのかな」
加奈はあっけらかんと言った。
「じゃ、じゃあ僕も行くよ!僕も一緒に消える。もう……疲れたんだ」
本心だった。
戦うことにも、傷つくことにも、失うことにも疲れた。
母さんと一緒なら、消滅だって怖くない。
これ以上の安らぎはないはずだ。
加奈は驚いたように目を丸くし、それから意地悪く微笑んだ。
「あなたは、本当にそれでいいの?」
「いいに決まってる!母さんと一緒にいられるなら!」
「本当に?」
加奈が覗き込む。
その瞳は、遥斗の心の奥底にある、まだ消えていない残り火を見透かしているようだった。
「……好きな子がいるんでしょ?守りたい子が、いるんでしょ?」
ドクン。
その言葉を聞いた瞬間、遥斗の脳裏に、鮮烈な映像がフラッシュバックした。
笑顔。
泣き顔。
怒った顔。
照れた顔。
『遥斗くん!』
金髪の、錬金術師の公爵令嬢。
どんな時も隣にいてくれた、大切なパートナー。
「あっ……」
遥斗は弾かれたように顔を上げた。
加奈が指さした映像の中。
そこには、冷たくなった遥斗の身体に縋りつき、声を枯らして泣いているエレナの姿があった。
彼女の周りには、異形の天使たちが迫っている。
美咲が必死に杖を構えているが、もう限界だ。
このままでは、全員死ぬ。
エレナも、殺される。
「そうだ……エレナが……!」
遥斗は飛び起きた。
安らぎに浸っている場合じゃない。
自分がここで諦めたら、彼女はどうなる?
あんなに泣いている彼女を置いて、自分だけ楽になっていいのか?
(このまま死ねない……!)
遥斗の魂が、再び熱を帯びていく。
消えかけていた輪郭が、強烈な意思の力ではっきりと形作られていく。
「まだ……死ねない!」
遥斗は拳を握りしめた。
その姿を見て、加奈は満足そうに目を細めた。
「そうでなくちゃ。……やっぱり、私の子供だわ」
「母さん……」
「行きなさい、遥斗。あなたを愛する人のために。あなたが愛する人のために。どんなに苦しくても。守らなきゃ、ね?」
「でも、どうやって戻れば……身体はもう……」
「大丈夫。私が、いえ、皆が力を貸してくれるから」
加奈は悪戯っぽくウインクした。
「でも気を付けて。クロノスは全ての力を創ったモノ。あらゆる能力は使用できるし、あらゆる能力は受け付けない万能の……まさに神」
「神……」
「こんなことお願いできる立場じゃないのは分かってるけど……ハルカとシューデュディをお願い!助けて!二人とも私の大切な……」
加奈の姿が薄れていく。
遥斗は手を伸ばした。
「わかったよ、母さん。僕も母さんの気持ちがわかった!ハルカもアマテラスさんも守ってみせるから。母さんに会えて良かった!」
「ええ。私もよ、遥斗。……本当にいい子ね。愛してる。行ってらっしゃい……」
「行って来ます!」
母の最後の笑顔が、光の中に溶けていった。
同時に、遥斗の意識が猛烈な勢いで落下していく。
温かい夢から、冷酷な現実へ。
天国から、地獄へ。
だが、今の遥斗はもう、空っぽな心ではなかった。
憎悪の炎を燃え上がらせる、復讐者でもない。
守るために帰還する。
一人の「人間」として。




