537話 眼差し
ここは天国か、それとも地獄か。
誰もが一度はそう自問しただろう。
だが、肌を刺すような高濃度の魔力と、腐臭を帯びた大気が、ここが紛れもない「終わりの場所」であることを告げていた。
かつて闇と呼ばれたその白き大地は、神の顕現によって形を失い、崩壊の一途をたどっている。
重力は乱れ、地面は浮き上がり、空には赤黒い亀裂が走る。
呼吸をするたびに肺が焼け付くような異質な魔力が侵入する。
通常なら、生身の人間など数秒で死に至る環境だ。
今、美咲たちがかろうじて生きていられるのは、決死隊のエレノアが残していったマジックアイテム『ライブ・フィールド』のおかげ。
半径1キロメートルの球状結界。
その内側だけが、人が生存できる唯一の聖域。
だが、その輝きも風前の灯火。
結界の外では、何もない、そう宇宙空間が口を開けて待っている。
この結界が失われれば、全員が真空に放り出され、文字通り絶命するだろう。
結界が無くなれば、持って数分。
「……はぁ、はぁ……っ」
美咲は杖を握りしめ、荒い息を吐いた。
助かる方法なら、ある。
美咲が持つ『空間魔法』で、元の世界へのゲートを開くことだ。
しかし、涼介は胸を抉られ瀕死の状態。
千夏の気功で辛うじて生かされているだけだ。
ブーストのない今の美咲の魔力とスキルの力だけでは、運べてせいぜい三人。
美咲、涼介、千夏。
この三人だけを連れて逃げる?
そんな選択肢が、悪魔の囁きのように脳裏を過る。
クラスメートを見捨てて?
恩人を置き去りにして?
遥斗君の遺体を放置して?
(……できるわけがない)
美咲は唇を噛みしめ、首を横に振った。
そんなことをすれば、自分は一生、地獄以上の苦しみを背負って生きることになる。
自分を許すことはできない。
その時だった。
ゾクリ。
背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
視線。
圧倒的な意思を持った、何者かの視線が美咲を射抜いていた。
美咲は恐る恐る顔を上げる。
視線の先。
視界を覆い尽くさんばかりに巨大化した、あの「女神」と目が合った。
かつて涼介の母だったモノ。
今は世界を喰らう邪神。
その赤黒く濁った瞳が、数百メートル上空から、正確に美咲だけを見下ろしていた。
「な……んで……?」
美咲の全身から怖気が噴き出す。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が止まらない。
なぜ、私を見ているの?
他にも人はいるのに。
なぜ、私を?
直感が、最悪の答えを導き出した。
(……待ってるんだ)
美咲は震える手で口元を押さえた。
(あいつは……私がゲートを開くのを待ってる……!)
転移してきた日の言葉が蘇る。
『闇は異世界に侵食する』。
きっとこのバケモノには、世界を渡る力がある。
おそらく、きっかけを欲している。
涼介の身体にいたのなら、彼を通じて美咲たちの世界の情報も、美咲の魔法も、全て知っているはずだ。
あいつは、この世界を喰い尽くした後、次は自分たちの世界を喰らうつもりだ。
美咲がゲートを開いた瞬間、その座標を知ることで……
そうなれば……
「……っ」
逃げられない。
転移魔法を使えば、地球が地獄に変わる。
では、転移しなければ安全なのか?
否。
賢者マーリン。
かつて、この世界で異世界召喚を行っていた張本人。
彼が忠誠を誓っていたのは、間違いなくこの「女神」だ。
マーリンを通じて、異世界への干渉手段はすでに確立されているかもしれない。
美咲がここで死んでも、遅かれ早かれあいつはやって来る。
これはただの勘。
何の根拠もない。
けれど、美咲の「マジックキャスター」としての勘が、それが真実だと告げていた。
(ここで……倒さないと)
美咲は覚悟を決めるように杖を構え直した。
逃げる場所など、最初からどこにもなかったのだ。
やるしかない。
でも、どうやって?
辺りを見回す。
マーガスやエーデルガッシュの力は失われている。
アマテラスも切り札の神剣クサナギはない。
千夏は涼介の延命に全精力を注いでいて動けない。
大輔とさくらは、勇者の加護を失って、戦力外。
エレナは……遥斗の遺体に寄り添ったまま、魂が抜けたようになっている。
皮肉なことに、今の時点で動ける最高戦力は、美咲だった。
あの神ごとき存在に対し、あまりにも無力な「魔法使い」が一人。
ギャアアアアアア……!
上空の「イド」の穴から、新たな絶望が降り注ぐ。
異形の天使たちだ。
それらがイドより這い出して来る。
「……終わりだ」
誰かが呟いた。
美咲は杖をぎゅっと握り締めたが、その手は震えて止まらなかった。
勝てるわけがない。
守れるわけがない。
(お父さん、お母さん、神様……誰か……)
美咲の目から涙がこぼれ落ちる。
(誰か……助けて……!)
その悲痛な祈りは、崩壊の轟音にかき消され、誰にも届かないように思えた。
ただ一人、冷たくなった彼を除いては。
***
遥斗は、安らかに目を閉じていた。
痛みはない。
苦しみもない。
寒さも、恐怖も、絶望もない。
ただ、とろけるような温かさと、懐かしい匂いだけが彼を包んでいた。
まるで陽だまりの中にいるような心地よさ。
ずっとこうしていたいと思えるような、絶対的な安心感。
ふと、頭を撫でられる感触があった。
優しく。
子供の頃に感じた、あの手のひら。
(……誰だろう?)
遥斗はゆっくりと、重い瞼を開けた。
眩い光に目が慣れると、そこには一人の女性の顔があった。
遥斗は、彼女の膝の上に頭を乗せていたのだ。
いわゆる膝枕というやつだ。
彼女は慈愛に満ちた瞳で遥斗を見下ろし、その髪を梳くように撫でていた。
「……母、さん?」
一目でわかった。
間違いようがなかった。
遥斗の母、佐倉加奈。
幼い日に生き別れ、ずっと追い求めてきた最愛の人。
記憶の中にある、あの若く美しい姿のままで、彼女はそこにいた。
「大きくなったね、遥斗」
加奈が鈴の鳴るような声で微笑む。
その瞬間、遥斗の目から涙が溢れ出した。
「母さん……母さんッ!」
遥斗は起き上がり、加奈に抱きついた。
温かい。
幻じゃない。
ちゃんと、ここにいる。
「会えた……やっと……やっと会えた……!」
長かった。
辛かった。
理不尽な目に遭って。
それでも生き抜いてきたのは、この瞬間のためだったのかもしれない。
死んでしまったけれど。
志半ばで倒れてしまったけれど。
それでも、こうして母に会えたのなら、悪くない結末かもしれない。
「会いたかったんだ……ずっと……」
遥斗は加奈の手を強く握りしめた。
「私もよ、遥斗。ずっと見ていたわ」
加奈もまた、力強く握り返してくれた。
しかし、遥斗の表情は次第に曇っていった。
喜びが引くと同時に、強烈な罪悪感がこみ上げてきたのだ。
「どうしたの? そんな顔をして」
加奈が心配そうに覗き込む。
「……ごめんなさい」
遥斗は俯いた。
「守れなくて、ごめんなさい。……涼介を止められなかった。ユグドラシルが破壊されて、母さんも死んで……だから、僕たちはあの世で会えたんだよね」
ユグドラシルは母そのものだった。
それが砕かれた。
そして自分も心臓を貫かれた。
だからここは死後の世界で、二人は魂となって再会したのだと、遥斗は悟っていた。
だが。
「何馬鹿なこと言ってるの?」
加奈は、きょとんとした顔をして、それからクスクスと笑った。
「え……?」
遥斗は呆気にとられる。
「あなた死んでないわよ?」
「ええっ!?」
「残念だけど、私は体がなくなっちゃったから、もうすぐ消えちゃうけど……あなたの肉体はまだあるもの。ちゃんと繋がってるわ」
「い、意味が分からないよ。僕は心臓を……」
「ええ、心臓は止まったわね。でも、この世界ではそれが『終わり』じゃないの」
加奈は遥斗の頬に手を添え、優しく諭すように語り始めた。
「教えてあげる。この世界の『魂』と『死』の真実を」




