532話 夢の終わり
世界から物質が消えたかのような錯覚。
遥斗の放った『グングニール』は、涼介の防御も、意識さえも置去りに、その胸へと吸い込まれるように突き立った。
——届いた。
遥斗がそう思った瞬間だった。
ガシッ。
「……ッ!?」
槍は、数センチほど涼介の胸にめり込んだところで、停止していた。
涼介の左手が、遥斗の腕を万力のように掴んでいたのだ。
再生したばかりのその腕は、ドラゴンの膂力ですら微動だにさせないほどの剛力を秘めていた。
至近距離。
遥斗と涼介の視線が交差する。
「……これで満足か?」
涼介の声は、氷のように冷たかった。
だが、その表情は相変わらず。
あの不気味なほどに穏やかな微笑みを称えている。
「心底感謝しているんだ、遥斗。お前という贄がいたからこそ、俺は覚醒できた。……ここに、『勇者』として完成したのは、全てお前のおかげだ」
敬愛すら感じられるような口調。
けれど、その瞳は遥斗の姿など捉えていない。
映っているのは、自らの偉業を飾るための「最後のピース」としての役割だけ。
「あ……が……」
遥斗は声を絞り出そうとしたが、喉から血が溢れて言葉にならなかった。
もう体が動かない。
渾身の力も、命を削った炎も、涼介という絶対的な壁の前では……。
下で見守る大輔たちも、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
圧倒的な力の差。
神話の終焉を見せつけられ、声一つ上げられない。
あのアマテラスでさえも、天を仰いだまま動けずにいる。
だが、一人だけ。
ひとりだけ。
エレナだけは。
……違った。
(ダメ!殺される!絶対にダメ!やらせない!どうやって!魔力銃?アイテム?間に合わない!間に合わない!間に合わない!)
彼女の脳内に、最大級のアラートが鳴り響いていた。
彼女だけが、遥斗の命の灯火が今まさに消えようとしていることをリアルに実感できてしまった。
「やめてぇぇぇぇぇッ!!誰かぁぁぁぁぁ!誰か助けて!!」
エレナは悲鳴を上げた。
瓦礫を掻きむしり、泣き叫ぶ。
「白虎!お願い、動いて!遥斗くんを助けてよぉ!!」
しかし、半壊した白虎は沈黙したまま。
誰も答えない。
誰も動けない。
エレナの絶叫だけが、崩壊する世界に虚しく響く。
上空で、涼介が静かに右手を引いた。
その手には、光り輝く『アルティマイト』が握られている。
「人の最期の業よ……浄化されるがいい」
涼介は、まるで親友を労うかのように、あるいは愛する者を抱きしめるかのように、優しく語りかけた。
「さようなら」
ズプッ。
抵抗などなかった。
アルティマイトは、遥斗の心臓を正確に透過した。
痛みはなかった。
ただ、熱い何かが胸の奥で弾け、急速に冷えていくのを感じた。
その瞬間、遥斗の身体から力が抜ける。
纏っていたドラゴンのオーラも、復讐の炎も、黒い憎悪も。
すべてが光となって霧散していく。
涼介が、剣を手放す。
同時に、掴んでいた遥斗の腕も。
「……」
物理法則を失った世界。
低重力の中、遥斗の身体は羽根のようにゆっくりと、仰向けになって落ちていった。
遠ざかっていく涼介の姿が、視界の中で滲む。
漆黒の中、光輝くその姿は、かつて憧れた親友に似た全く別のナニカだった。
(涼介は……どこに、行ったんだろう……)
薄れゆく意識の中で、遥斗はぼんやりと考えた。
あんなに近くにいたのに。
もう、彼の手は届かない場所に行ってしまった。
視界が暗くなっていく。
走馬灯のように、異世界で出会った人々の顔が浮かんでは消えた。
ルシウスさん、アリアさん、シルバーファングの皆さん、エステリアさん、アディラウスさん、ブリードさん、ケヴィンさん、サラさん、アレクスさん、アマテラスさん、ツクヨミさん、ハルカ、トム、マーガス、シエル、グランディス、ユーディ……
何も守れなかった。
何も成せなかった。
ただ、無力だった。
それでも。
「——遥斗くん!」
聴覚だけが最期まで残っていたのか。
エレナの声だけが、はっきりと聞こえた。
悲痛な、けれど愛おしい声。
この世界で、人間らしくいられたのは彼女のおかげ。
自分に寄り添ってくれた大切な人。
(ああ……エレナ……)
ごめん、とは言えなかった。
ただ、心からの感謝が溢れた。
君と出会えてよかった。
こんな理不尽な世界で、君という光があったことだけが、僕の救いだった。
遥斗は最後に、笑おうとしたのかもしれない。
けれど、その表情はもう動かなかった。
ゆっくりと、瞼が落ちる。
世界から音が消え、光が消え、痛みさえも消えていく。
深い、深い闇の底へ。
——佐倉遥斗、心臓停止。




