531話 イカロス
上空で繰り広げられる攻防は、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的で、そして残酷なほどに美しかった。
黒き竜と化した遥斗が、咆哮と共に空を駆ける。
その姿は、神話の時代に太陽を目指し、熱に翼を焼かれて堕ちたイカロスそのものだった。
近づけば近づくほど、彼が振るう熱量が高まれば高まるほど、その身は確実な破滅へと向かっていく。
「オ”オ”オ”オ”オ”ッ!!」
遥斗の繰り出した爪が、槍が、魔法が、涼介の身体を捉えようと殺到する。
だが、届かない。
涼介が手にした光の剣——勇者の最終武装『アルティマイト』が、物理法則すらも嘲笑うかのように振るわれるからだ。
風切り音すらしない。
遥斗が繰り出した魔力の槍『グングニール』に対し、涼介は剣を軽く合わせただけだ。
本来なら激突音と火花が散るはずの衝突。
しかし、そこで起きたのは「透過」という異様な現象だった。
涼介の剣が、グングニールをすり抜けるのだ。
否、正確には違う。
『アイテム士』としての遥斗の目が、極限状態の中でもその真理を解析してしまう。
(……光の粒子が……魔力を分解している……!?)
アルティマイトは、ただの剣ではなかった。
超高密度に圧縮・収束された光の粒子そのもの。
それが物質に触れた瞬間、対象の分子結合を強制的に切断し、透過しているように見えるのだ。
斬るのではない。
そこに「在る」という定義そのものを無効化している。
そして、それだけではない。
「ふっ」
涼介が手首を返すと、今度は透過していたはずの剣が、強烈な斥力を生み出し、遥斗の攻撃を弾き飛ばした。
原子の斥力を自在に操る、攻防一体の絶対兵装。
「ガ、ハッ……!!」
弾かれた衝撃が、遥斗の全身を駆け巡る。
まるで巨大な壁に生身で突っ込んだかのように、肉体が悲鳴を上げ、骨が軋む音が頭蓋に響く。
遥斗は何度斬られ、何度弾かれただろうか。
身体はとうに限界を超えている。
裂けた筋肉、切断された血管、粉砕された骨。
本来ならピクリとも動けないはずの死に体を、大輔から奪った『竜騎士』の生命力と、『マリオネイター』の黒い糸が、無理やりに動かしていた。
自身の肉体を外側から強引に締め上げ、操り人形のように駆動させる。
激痛などという生易しいものではない。
魂が削れるような苦悶。
それでも、遥斗の赤き瞳だけは死んでいなかった。
ただ一点、目の前の勇者を射抜くことだけを渇望して燃え盛っている。
対照的に、涼介の姿はあまりにも静かだった。
背中には六対の光の翼。
満身創痍で血にまみれの遥斗とは比べ物にならないほど、その衣服には汚れ一つなく、呼吸の乱れすらない。
その表情は、余裕と呼ぶにはあまりにもかけ離れていた。
無表情のようでもあり、慈愛に満ちた微笑みのようでもある。
仏像に見られるアルカイックスマイル。
全ての感情を超越し、眼下の悲劇すらも「必然」として受け入れている神の顔。
「……あぁ……」
地上で見上げていた美咲が、思わず吐息を漏らした。
その戦いは、凄惨であるはずなのに、涙が出るほどに神々しかった。
涼介の一挙手一投足が、計算しつくされた芸術品のように洗練されている。
千夏も、大輔も、さくらも、そして敵であるはずのマーガスでさえも、その圧倒的な「美」に見蕩れ、言葉を失っていた。
世界が崩壊していく中で、彼だけが完成された輝きを放っている。
だが、遥斗は諦めない。
一瞬の隙を窺い、勝負に出た。
(アイテムを……!)
遥斗の手が、腰のマジックバッグへと伸びる。
一瞬。
ほんのコンマ数秒、意識が涼介の剣から離れ、バッグの中身へと向いた。
今の涼介が、それを見逃すはずがないのに。
涼介の指先から、一筋の閃光が放たれる。
先ほど遥斗が放った『ドラゴン・インパクト』を模した、しかし遥斗のそれよりも遥かに速く、鋭く、無駄を削ぎ落とした極光。
「フォトン・インパクト!」
「しまっ……ドラゴンズ・イージスッ!」
遥斗は反射的に防御障壁を展開する。
だが、無駄だった。
神の雷の如き勇者の光は、竜の障壁を紙のように貫通した。
狙いは、遥斗ではない。
ブチッ。
乾いた音がして、遥斗の肩からマジックバッグが離れた。
ベルトが切断されたのだ。
「あ……」
遥斗の手が空を切る。
マジックバッグは重力に引かれ、崩壊する大地へとゆっくりと落下していく。
アレを追えば、背中を見せることになる。
涼介はすでに剣を構え、悠然と遥斗に狙いを定めている。
追えば……斬られる。
(くそッ……!!)
遥斗は唇を噛み切り、落下していく最後の希望を見送るしかなかった。
バッグに入れていた空き瓶がなければ、『生成魔法』でポーションを作ることもできない。
アイテムによる回復も、武器の換装も、奇策も。
その全てが、今、断たれた。
残されたのは、ボロボロの身体と、残りわずかな魔力のみ。
誰の目にも、勝敗は決していた。
勝ち目など万に一つもない。
それでも、遥斗は止まらなかった。
誰も彼を止められなかった。
神に背いた大罪人が、自ら断罪されることを望んでいるかのように。
あるいは、その身が燃え尽きるまで止まれない呪いにかかっているかのように。
その時。
プツン……。
遥斗の身体を支えていた糸が、切れた。
勇者の攻撃ではない。
時間切れだ。
ルドルフから奪い、最初に使用していた『マリオネイター』のポーション。
その効果時間が終了し、身体を無理やり繋ぎ止めていた黒い糸が霧散していく。
ガクンッ、と遥斗の四肢から力が抜ける。
砕けた骨が、支えを失って肉に食い込む。
「ガ、アァァ……ッ、ハァ……ハァ……」
激痛が脳を焼き尽くす。
じきに、ブリードからもらった『剣聖』の力も、シエルからもらった『魔術師』の力も消えるだろう。
そしていずれ、『竜騎士』の力も。
そうすれば、遥斗はただの無力なアイテム士に戻る。
空を飛ぶことさえできない、墜落するだけの存在に。
これが、最後。
遥斗は悟った。
もう、策はない。
防御も、回避も、回復も考えない。
身体はすでに壊れている。
この一撃の後、自分がどうなろうと知ったことではない。
(……それでも、いい)
遥斗は残された全ての感覚を研ぎ澄ませた。
視界が狭まる。
音すらも遠ざかる。
あるのは、目の前、高橋涼介の心臓のみ。
『剣聖』のスキルが、遥斗の精神を変質させていく。
ドス黒い悪意が、純粋な殺意へ。
そして殺意は、極限まで透き通った集中力へと昇華される。
(全部……持っていけ……!)
遥斗は展開していた防御スキル『アブソリュート・ドミニオン』を攻撃へと転用する。
さらに、詠唱する。
己の身すら焼き尽くす最強の炎を。
「……ボルテクス・ファイアドラゴン」
紅蓮の炎が遥斗の身体を包み込む。
皮膚が焼け、肉が焦げる匂いが立ち込めるが、遥斗は眉一つ動かさない。
その炎を、全て右手の『グングニール』へと注ぎ込む。
最強の矛。
己の命を燃料にして放つ、究極の一撃。
遥斗の意識が薄らいでいく。
肉体の境界線が曖昧になり、自分自身が一本の槍になったような感覚。
思考よりも速く。
本能が引き金を引いた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
最後の咆哮と共に、イカロスが太陽へと煌めいた。




