471話 追い詰められた希望
ブリードの息が、荒い。
シュトルムバッハーを構える腕が震え、額から流れ落ちる汗が視界を遮っていた。
剣聖と謳われるこの男が、生涯で初めて味わう感覚。
それは、形容のし難い不気味さだった。
目の前のニンジャスタイルの戦士——カゲロウ。
戦い方、まさに異質だった。
攻撃のような防御、防御のような攻撃。
動きから本心が全く見えず、強いのか弱いのかさえも計り知れない。
霧のように掴みどころがなく、ブリードの全ての経験と技術が、この男の前では無意味だった。
「どうしたどうした?もう終わりなのか?剣聖サマよぉ」
カゲロウが、人を食ったように笑う。
その声には侮蔑が混じり、覆面の下の顔が歪んでいるのが分かる。
ブリードは歯噛みした。
この僅かな時間で、どれほどの技を繰り出しただろうか。
神速の踏み込み、見切りの太刀、オーラを纏った必殺の斬撃。
全てが空を切った。
結局、ブリードはいたずらに力を浪費させられているだけなのだ。
「ぬわっ……!」
ブリードが再び踏み込む。
比類なき剛閃。
風を切り裂き、大気を震わせる。
シュゥゥゥ……
カゲロウの姿が煙に包まれ、初めから、そこにいなかったかのように消えた。
スキルか、それとも幻術か、判別すらできない。
「おっせぇよ!」
背後から声。
ブリードが振り向きざまに横薙ぎを放つと、シュトルムバッハーが風を孕み、衝撃波を撃ちだす。
が、そこにも誰もいない。
「クカカカ!これで剣聖ってか?帝国は弱っちい連中でも成り上がれるんだな。ま、皇帝があんなのじゃな。慰み者には丁度良さそうだが」
限界を超える侮蔑。
敬愛する陛下を嘲笑されたのであれば、生きて返す事など出来ない。
ブリードの拳が、強く握られた。
分かっている。
全て分かっているのだ。
この者は自分の力を完璧に把握し、こちらの疲労も全て見通している。
罠だと分かっていても、止められない。
剣聖として、軍務尚書としての誇りが、冷静になる事を許さない。
どれだけ力が残っているか。
この男に届くのか。
不倒の剣の視界が歪む。
***
空中で二つの白き光が、激しくぶつかり合っていた。
エーデルガッシュとエリアナ。
どちらも神子の力を纏い、重力を無視して宙を舞い、天使の戦いのように神々しくも禍々しい光景を作り出していた。
魔力が衝突し、火花が散る。
エーデルガッシュは必死に斬撃を繰り出すが、エリアナの動きには予備動作が一切なく、滑らかな動きについて行けない。
ゴッドアイでさえ。
次の動きが読めない。
そして——
「止まりなさい」
エリアナの声が、静かに響いた。
エーデルガッシュの身体が硬直する。
(くっ……!またか!)
ゴッド・ヴォイスの本当の力。
真言。
命じたままに相手の行動を制限する、理不尽なまでの力。
神の言葉は、世界の理さえも捻じ曲げる。
オーバーロード状態のエーデルガッシュは、その圧倒的な魔力でもって即座に束縛を解除する。
その一瞬のスキ。
たった一瞬。
エリアナにはそれで十分だった。
彼女の腕が、まるで鞭のようにしなり、人間の可動域を無視した角度と長さで襲いかかる。
まるで軟体生物のようだ。
柔軟に伸び縮みし、エーデルガッシュの足首を掴む。
ドゴォン!
小さな身体が、激しい勢いで地面に叩きつけられた。
「ぐ……あっ……!」
土煙が上がり、地面に大きな亀裂が走る。
幼い身体が、無慈悲に土と血に塗れていく。
エリアナは、ゆっくりと降下して来た。
「どうですか?そろそろ降参されるのをお勧めしますが……あっもちろん処刑は致しますよ?罪は罪ですから」
その言動には優雅さが溢れている。
しかし、感情がない。
慈悲もない。
憎しみすらも。
ただ、目的を遂行するためだけに存在する——生きた人形。
これは人ではない。
エーデルガッシュは、ようやく理解した。
四肢は自在に変形し、固くも柔らかくもなり、人としての制約を一切持たない。
モンスターと言われれば、思わず納得してしまう。
それでも、オーバーロードの練度は、エリアナの方が圧倒的に上だった。
神の力が、エーデルガッシュよりも深く馴染んでいる。
モンスターであるならば、神の力を行使できるわけがない。
「余は……こんな……ところで……」
血を吐きながら立ち上がろうとする少女皇帝。
しかし、身体が悲鳴を上げ、両腕が震えて力が入らない。
それでも——それでも、諦めなかった。
「臣民……いや、全ての者は……余が……守る……!」
***
アマテラスは——
もはや、立っているのがやっとだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
全身が傷だらけで、金色の髪は血に染まり、太陽神と謳われた男の姿は見る影もなかった。
護符の力で引き上げられたレベルは600後半。
この世ならざる領域に達しているはずなのに、それでも勝てない。
いや、勝てないどころか……
手も足も出ない。
これは戦いではなく、ただの一方的な蹂躙だ。
「さぁ立つのだ……脆弱な甥よ」
エルミュレイナスは、全くの無傷だった。
その表情には余裕すら浮かんでいる。
神子のステータス補正は基礎能力を二倍に引き上げ、さらにオーバーロード状態はその倍率を跳ね上げる。
レベルが互角でも、実際の戦闘力は比較にならないほどの差が生まれていた。
さらに、エルミュレイナスのスキル。
物体を瞬時に移動させる能力。
アマテラスの攻撃だろうが、本人だろうが、自在に瞬間移動が可能。
空間を捻じ曲げ、因果を無視し、攻撃を無力化する。
「くそっ……!」
アマテラスが、最後の力を振り絞ってクサナギを振るう。
金色の斬撃が、空気を裂いて襲いかかった。
しかし——
刹那、エルミュレイナスの姿が消える。
次の瞬間には、アマテラスの背後に立っていた。
違う。
アマテラスがエルミュレイナスの前に瞬間移動させられたのだ。
ドゴォン!
そのまま背中に、容赦ない一撃。
「がはっ……!」
アマテラスが、膝をつく。
もう限界だった。
五百年の時を生き、数え切れないほどの戦場を駆け抜けてきたこの男が、初めて感じる絶望的な力の差。
「所詮は兄の紛い物よな」
エルミュレイナスが、冷たく告げる。
挑発ではなく、ただの事実。
***
ゴルビンは、呆然と立ち尽くす。
目の前で繰り広げられている戦いは、もはや人の及ぶところではない。
おとぎ話、神々が争ったという伝説の再現——いや、それは世界の終焉だった。
「な……なんだよ……これ……」
ゴルビンの声が、震える。
かつて自分は強者だと信じていた。
ミスリルの壁を率い、誰もが恐れる使い手だと自負していた。
しかし今、この場所で繰り広げられている戦いは、そんな自信を粉々に打ち砕いていく。
バレーンは必死で魔法を発動させていた。
「雷よ、天より降り注げ!サンダーボルト!」
暴徒と化した自軍の兵、エルフ兵——もはや敵も味方もない。
ただ生き残るために、本能のままに戦うしかない。
魔法が敵を薙ぎ払い、肉を焼く異臭が漂う。
敵は次々と湧いてくる。
終わりが見えない。
これはもはや戦争ではない。
勝ち負けなど無いのだから。
光翼騎士団も、必死の抵抗を続けている。
剣を振るい、盾で防ぎ、仲間を守る。
それでも、一人、また一人と倒れていった。
悲鳴が響き、血が飛び散り、死が戦場を支配していた。
デミットは、全てを見ていた。
天使が戦いを繰り広げ、修羅が徘徊する——これが地獄。
異世界の御伽噺に聞く、地獄そのものだ。
自分は賢者だと思っていた。
全てを見通し、全てを理解していると信じていた。
しかし今、この光景を前にして、自分がいかに無力で愚かだったかを思い知らされる。
(……エリュシオン、神々の住まう場所)
デミットの思考が、混濁する。
理性が崩壊しかけている。
(これが……これが神の望み?こんな地獄が……こんな絶望が……神の願う世界なのか……?)
その時だった。
巨大な魔力フィールドが戦場全体に展開された。
瞬間——
操られていた兵士たち全員が、動きを止めた。
呆然と立ち尽くす。
まるで時が止まったように。
十数万の兵士が、一斉に、完全に、静止した。
「な……なんだ……?」
皆、何が起きたのか理解できず、周囲を見回すばかり。
助かったのか?
いや——
この静寂は、嵐の前の静けさではないのか?
次の地獄が、さらに恐ろしい何かが、始まろうとしているのではないか?
疑心暗鬼に包まれる。
***
エルミュレイナスは、地に伏すアマテラスから目を離す。
違和感。
明確な、異常。
(ルドルフのスキルが……消えただと?)
展開されていたはずのスキルが変質し、明らかに別の命令が施されている。
エルミュレイナスの白い眉が、僅かに顰められた。
即座に念話を飛ばす。
しかし——
通じない。
ルドルフとのリンクが切れている。
意識がないのではない、魂そのものの消失。
つまり——死んだ。
ルドルフが、死んだのだ。
慌てて、他の異世界人にも念話を試みる。
レゾ、ヴァイス、ガルモ——五百年前にも利用した異世界の戦士たち。
全員——
反応がない。
死んでいる。
(先ほど……アイテム士の少年と、中村大輔、伊藤さくらが戦闘に入ったはず)
(同郷の志に絆されて裏切ったか?)
しかし——それでも信じられない。
あの四人が負けるなど、ありえない。
ルドルフ、レゾ、ヴァイス、ガルモ——彼らは再度召喚した戦士。
二度目の召喚により全ての能力は飛躍的に向上し、この世界の誰よりも強く、誰よりも狡猾で、誰よりも残酷だったはず。
異世界転移は行うたびに潜在能力が引き上げられる。
転移時に神の力に強く触れることで、人ならざる力を得るのだ。
もっとも——その時に、どこか精神が壊れるのだが。
(まぁ死んでしまったものは仕方がない)
エルミュレイナスが、冷静に状況を分析する。
(今の段階で、エリュシオンが完全に成し遂げられたかは……微妙だな)
もう一押し必要だ。
もう少し、魔力を消費させ、世界を削り取らねば。
(……最後の仕上げをする時かもしれぬ。こ奴らにはもう少し頑張ってもらわねば、な)
エルミュレイナスが、再びアマテラスに視線を向けた時——
新たな気配。
複数の強い気配が、戦場に近づいてくる。
エルミュレイナスの目が、細まった。
丁度いい客だ。
戦場、血と死の臭いに満ちた地獄の入口へ——
マーガスとシルバーファングの面々が現れた。




