361話 母の愛
バハムスの背中に乗った一行が、闇の境界に到達した。
目の前に広がる闇の巨大さに、一同が言葉を失う。
世界の十分の一を覆い尽くした闇が、まるで生き物のように蠢いている。
「こんな……以前見た時とは……比べ物にならない……」
シューデュディの声は震えていた。
かつて見た穴とは、もはや次元が違う規模だった。
「まるで深淵そのものが這い出してきたようだな。これが終焉の光景か」
竜王ですら、その異常さに戦慄を禁じ得ない。
「前は穴だってわかったのに、もう全容が見えないわ……」
セレシュルムが全体を見渡す。
闇は地平線の向こうまで続き、空をも飲み込んでいる。
シューデュディが膝をつく。
「やはり……もう手の施しようがないではないか」
心が完全に折れてしまった。
この世界の終末を前に、もはや抗う気力も残っていない。
しかし、加奈の闘志だけは衰えない。
「白狼があれば突入に問題無し。でも長時間は無理ね。空気も圧力もない。完全に真空、いえ、これはもはや宇宙空間ね」
あくまでも冷静に分析を行う。
解決策を模索し続ける。
諦めの、という言葉はない。
「まずは自重で崩壊しないようにするのが最優先か。次に闇を拡大させない方法を考えないと。でも回復が先か……」
白狼のバイザーに表示されるデータを確認しながら続ける。
論理的な手順を頭の中で整理していく。
「物質がイドに蓄積されているなら、イドから物質を取り出せばいいんだ。これは実現可能」
しかし、この方法には問題があった。
「でも障害は魔力消費量。取り出す量より消費する量の方が多いから」
一瞬希望が見えたかに思えた。
だが、シューデュディが「そうか、それでは意味がないな」と落胆する。
加奈が「大丈夫……解決策を考えてあるから。でも……」と言葉を濁した。
その時だった。
ハルカが突然加奈にしがみつき、大泣きし始める。
「お母様!だめぇ!」
加奈の心を視てしまったハルカが、半狂乱になっていた。
「お母様のぉ考えてること、全部ぅわかっちゃった!そんなのだめぇ!だめなのぉ!」
涙を流しながら必死に加奈を引き留める少女。
加奈がハルカの頭を優しく撫でる。
「ハルカは可愛いわね……本当に。まったくもう……」
(このまま一緒に死ぬのも悪くないのかも……)
内心考える加奈。
しかし、幼い頃の遥斗の笑顔が脳裏に浮かんだ。
無邪気に笑う息子の姿。
まだ小さかった頃の、温かい記憶。
それがハルカに重なった。
「遥斗……」
小さく呟き、決意を固める。
シューデュディに向き直り、深々と頭を下げた。
「ハルカのことをお願いします。不出来な母で申し訳ありませんでした」
セレシュルムが「加奈、まさか……」と青ざめる。
加奈がバハムスにも深々と礼を述べる。
「陛下、あなたに来ていただかなければ、本当に世界は終わっていました。ですが、ギリギリ何とかなりそうです」
感謝を込めた別れの挨拶。
「やめろ!一人で逝くなど許さん!」
シューデュディが引き留めようとする。
加奈がシューデュディを強く抱きしめた。
「ありがとう。あなたに会えて良かった……それだけで……私の人生は報われた」
涙を浮かべながら告げる。
「後の事は任せます!この世界を救って!」
最後の言葉。
白狼を最大出力にして、一人で闇の中へ飛び込む加奈。
「加奈ぁぁぁぁあああ!」
シューデュディが絶叫する。
「ミズチ!お願い!お母様を追って!」
ハルカが必死にミズチを闇に飛ばした。
***
ヤタノカガミに真っ暗な何もない空間が映し出される。
加奈が中心部に向かって進む様子が映る。
白狼の光だけが、無の空間を照らしていた。
加奈がディスプレイバイザーで情報を確認する。
「……ここが中心部ね」
呟きながら、最後の作業を開始する。
「ゴッド・クリエイト!」
叫びと共に、巨大な機械を創造した。
惑星の崩壊を防ぐフィールド発生器。
「お願い!星を!皆を救って!」
フィールド発生器から無数のビットが射出される。
ビットは超高速で移動し、闇の境界で停止する。
そして、それぞれが力場を形成し、惑星崩壊を防ぐシステムが起動した。
「これで第一段階クリア……」
ひとまず安堵の表情を見せる加奈。
ここからが正念場だ。
進化の実を取り出し、分析結果を確認する。
「これは……自分が望んだ姿に進化できる奇跡のアイテム。例えそれが進化と呼べなくても……」
最後の希望を手に、決意を固めた。
しかし、その手は僅かに震えている。
加奈がバイザーを解放し、何もない空間に顔を晒す。
「うっ、苦しい……」
真空の苦痛に耐えながら、進化の実を口に運ぶ。
シューデュディたちが鏡でその様子を見て「加奈!」と叫ぶ。
実を口にした加奈の体が光に包まれ、急速に変化を始める。
音は聞こえない。
しかしハルカだけは加奈の心が視える。
まるで加奈とリンクしたかのように「痛い!痛いよぉ!」と半狂乱になった。
人の形から異形のモノへ。
者ではなく物。
それは植物。
人が植物へと変貌を遂げていく。
「これで……何もない空間でも……存在できる……永遠に……」
激痛を耐え、必死に歯を食いしばる加奈。
巨大な樹の姿になり、フィールド発生器を体内に取り込んだ。
「システムエネルギーは私自身が……供給する!」
その間も、全身の骨が砕け、肉は千切れ、皮膚が変容していく。
それでも遥斗の顔を思い出し耐え続ける。
最初は激痛、そして無限の苦しみ、恐怖。
最後には意識が希薄になっていった。
ハルカがその感覚を全てを共有し「お母様ぁ!お母様ぁ!苦しいよぅ!」と泣き叫ぶ。
加奈が最後の力でイドの奥深くに意識を向けた。
そこで見たものは——
加奈の人として、最後の意識がハルカに伝わる。
ハルカが涙を流しながら呟いた。
「クロノス……」
感情を失った少女の口から、言葉が漏れた。
闇の中心で、加奈は巨大な樹となった。
世界を支える柱として、彼女は存在し続ける。
これから先何百年と。
母の愛が、奇跡を生み出した。




