289話 黒き瞳の記憶(前)
闇の中に沈んでいく——。
遥斗の意識は、ハルカに導かれるまま過去へと遡っていた。
そこには忘れたくても忘れられない、あの日の光景が広がっていた。
異世界に転移して間もない頃。
遥斗だけがレベルアップできず、涼介たちに置いていかれたあの日。
「遥斗、はっきり言うぞ。お前は来てはいけない。レベルの差は単なる数字じゃない。実力の圧倒的な差なんだ。お前が来れば、みんなの足を引っ張ることになる。そうなれば、全員が危険にさらされる」
無情な言葉と共に、涼介は背を向けた。
その横顔には苛立ちと諦めが混じっていた。
美咲も悲しそうな顔をして、ただ申し訳なさそうに頭を下げるだけだった。
「私たち、すぐに戻ってくるから。その間に、あなたなりの成長をしていて」
彼女の言葉には優しさがあった。
それだけに、余計に辛かった。
仲間だったはずの彼らは、勇者パーティとして一目置かれる存在。
アイテム士として何の力も持たない遥斗を守るよりも、自分たちの使命を優先したのだ。
見知らぬ世界で、一人で生きる力もなく置いていかれる——。
その絶望感は、遥斗の心を深く抉っていた。
「そう……ひとりで不安だったのですね」
ハルカの声が、遥斗の心に優しく染み入る。
しかし遥斗は答えられなかった。
確かに不安だった。
命の危険を感じながら、孤独に取り残される恐怖。
しかし、それ以上に悔しかった。
涼介たちが自分の身の安全を考慮してくれたことは理解していた。
自分が足手まといであることも理解していた。
それでも——この理不尽な世界が、どうしても許せなかった。
自分の運命に抵抗できない自分自身が、悔しくて仕方なかったのだ。
「そうなんですね。あなたの悔しさは理解できます」
ハルカの言葉は、遥斗の心に寄り添うように優しかった。
自分の記憶に共感してくれる声。
普通なら心が動かされてもおかしくない。
しかし、なぜか遥斗の心はあまり揺さぶられなかった。
その理由は遥斗自身にも分からなかった。
「もっとあなたのことを教えてください」
ハルカの声に導かれ、遥斗の意識はさらに過去へと遡っていく。
***
中学校の裏庭。
放課後の薄暗い校舎の影で、数人の男子生徒が集まっていた。
彼らは誰かの鞄の中身をゴミ捨て場に投げ捨て、ふざけあっていた。
そして最後に、空っぽになった鞄を放り投げる。
その鞄が、たまたま通りかかった遥斗の目の前に落ちてきた。
遥斗は誰のものか分からないまま、その鞄を拾い上げた。
そして静かに、散らばった教科書やノートをひとつずつ拾い集め始める。
男子生徒たちは、遥斗の行動に気づいて文句を言い始めた。
「おい、何してんだよ?」
「お前、高橋のダチかよ!」
「邪魔すんなよ!」
遥斗は高橋が誰なのか知らなかった。
それでも、こうして隠れて行われる嫌がらせを見逃すことはできなかった。
「良くないよ、こんな事」
遥斗の言葉は小さかったが、確かに聞こえた。
しかし、他人に意見されることが気に入らなかったのか、一人の生徒が苛立ちを露わにする。
「あ?なんだと?」
ドンッ!
遥斗は簡単に吹き飛ばされた。
男子生徒たちはへらへら笑いながら、その様子を眺めている。
しかし、遥斗はむくりと立ち上がると、何事もなかったかのように再び荷物を拾い集め始めた。
「テメェ、舐めてんのか!」
苛立った相手は遥斗の制服の襟を掴み、力任せに地面に押し倒した。
頭が地面に叩きつけられ、鈍い痛みが後頭部を駆け巡る。
「お前みたいな”いい子ちゃん”、マジでムカつくんだわ!」
最初の蹴りが肋骨に入る。
激痛と共に息が詰まった。
続いて二人目が加わり、肩を踏みつける。
シューズの裏から伝わる圧力で、肩関節がきしんだ。
「聞こえてんのか?邪魔すんなって言ってんだろが!」
三人目の拳が顔を強打する。
口の中で血の味がした。
涎と血が混じり、呼吸をするたびに鼻から肺へと、鉄の匂いが流れ込む。
息をするのも辛い。
それでも遥斗は、ただ黙って受け続けた。
感情を失ったような虚ろな眼差しで、相手を見つめるだけ。
「なんだこいつ?!」
「キモい……目がキモいんだよ」
「なんで黙ってんだよ?」
遥斗の抵抗のなさが、逆に彼らの恐怖心と怒りを煽った。
踵での踏みつけが腹部を直撃する。
内臓が押し潰されるような圧迫感。
口から小さく「うっ」という声が漏れる。
それでも遥斗の表情は変わらない。
むしろ、彼の目は次第に漆黒の色を帯び始めていた。
「ダチじゃなかったら、なんでそこまでするんだよ!いかれてんのか?」
彼らの暴力は止まらず、どんどん激しさを増していった。
頭を蹴られ、脇腹を踏まれ、顔を殴打される。
およそ30分ほど、三人の暴力は続いた。
やがて彼らは息を切らし、ほとぼりが冷めてきた頃、遥斗はゆっくりと立ち上がった。
全身が痛みに包まれ、血に染まった制服。
惨めな姿だった。
しかし遥斗は一言も発せず、まるで何事もなかったかのように、散らばった教科書やノートを再び拾い始めた。
その様子にいよいよ恐怖を感じた一人が、周囲を見回す。
ゴミ捨て場に、半分折れた角材が転がっていた。
「こいつ……俺達を完全になめてんよなぁ……?」
彼は角材を拾い上げ、遥斗に向かって駆け寄った。
「ぶっ殺してやる……!」
角材を振りかぶり、遥斗の頭部めがけて振り下ろそうとした瞬間——。
ドゴッ!
何かが閃光のように男子生徒の顔面を襲った。
視界が一瞬白く光り、そのまま体が宙を舞う。
背中から地面に落ち、意識が遠のく。
「おい、お前ら……何やってんだ?」
暗い校舎の影から、一人の男子生徒が姿を現した。
明らかに普通の生徒とは違う雰囲気をまとった少年。
それは高橋涼介だった。
残りの二人は一瞬怯んだものの、仲間が倒されたことに怒りを覚えたのか、涼介に殴りかかる。
「テメェ!」
「何してくれてんだよ!」
しかし、彼らの拳は涼介の動きには追いつく事はなかった。
一人目の腹部にめり込む涼介の拳。
くの字に折れ曲がって倒れる。
二人目の顎を捉えた正確な右フック。
彼もまた、地面に転がり、身動きが取れなくなった。
涼介の動きには無駄がなく、まるで戦いに慣れた戦士のようだった。
全てが10秒と経たずに終わった惨劇。
そして涼介は、今なお黙々と荷物を拾い続ける遥斗に向かって叫んだ。
「お前!怪我してるじゃねぇか!」
しかし遥斗は拾うのをやめない。
涼介は遥斗に近づくと、ようやく気づいた。
遥斗が拾っている荷物は、涼介自身のものだった。
涼介は一瞬言葉を失った。
てっきり遥斗がいじめられていると思っていたが、違っていたのだ。
彼は見知らぬ他人の荷物を、自分の身を顧みず拾い集めていた。
「それ……俺のだ」
遥斗がゆっくりと振り向いた。
その瞬間、涼介は心底恐怖した。
遥斗の瞳は漆黒で、そこには一切の感情が映っていなかった。
まるで深い闇を覗き込むような、虚無の瞳。
しかし、次の瞬間、遥斗の表情が一変する。
柔らかな微笑みを浮かべ、涼介に鞄を差し出す。
「これ君のなんだね。はい、どうぞ」
その笑顔は優しかったが、黒い瞳はそのまま。
感情が完全に抜け落ちている。
涼介は不思議な感覚を覚えながらも、鞄を受け取った。
「ああ、助かった……」
そして涼介は遥斗に尋ねた。
「お前……名前は?」
「佐倉遥斗」
涼介は鞄を手に、遥斗に背を向けて立ち去った。
これが涼介との出会いだった。
***
「なぜ傷つけられるのに助けたんですか?」
ハルカの声が、遥斗の記憶に重なる。
「分からない……でも、見過ごせなかった」
遥斗は正直に答えた。
「あなたは優しいのですね」
その言葉に、遥斗は首を横に振った。
「違う……僕は優しくなんかない」
「でも、助けてあげましたよね?」
「……」
言葉に詰まる遥斗。
「あなたの中に、何かがあるのですね……」
ハルカの声がさらに深く問いかける。
「あなたの瞳に宿る闇……それがあなたの根源……」
遥斗は沈黙した。
この世界への怒り。
理不尽さへの抵抗。
そして、何かを守りたいという気持ち。
「あなたの目は……」
そして遥斗の意識は、再び闇の中へと沈んでいった。




