242話 突破口を開け
「シエルちゃん、シエルちゃん……」
グランティスの囁くような声がシエルに届く。
エメラルドオーガが威圧感を増す中、場違いな軽薄さを含んだその声に、シエルの眉がピクリと動いた。
「なんなんっすか!?今忙しいっす!」
シエルは目に苛立ちを滲ませながら振り返る。
怒りが込めらた視線を受けても、グランティスは悪びれる様子もなく彼女に近づいてきた。
「あのさぁ」彼はさらに声のトーンを落とし、遥斗に聞こえないよう小声で言う。
「ここは一旦撤退した方がよくね?」
「は?」シエルの表情が一瞬で硬直した。
グランティスは片手を口元に当て、真顔で続ける。
「俺たちの攻撃、全然効いてないじゃん?このままじゃマジで命に関わるぜ」
「魔法も物理攻撃も弾かれるエメラルドの鎧。俺たち、完全に相性最悪だよぅ」
彼の指先がディスチャージャーに触れ、心なしか青白い光が震えているように見えた。
シエルは戸惑いの表情を浮かべながらもチラリとエメラルドオーガを見た。
確かに、全身をエメラルドで覆われたその怪物は、これまでのどのモンスターよりも強固な防御能力を誇っていた。
「でも......素早いと噂のオーガから、逃げられる気がしないっすよ?」
「だからさ、秘策があるんだって」
「秘策?」
「遥斗君に頑張ってもらってる間に、俺たちは戦略的撤退っていうのはどう?」
グランティスは肩を竦める。
その言葉を聞いた瞬間、シエルの瞳から火花が散った様に見えた。
「師匠を置いていけるわけないっすーーーー!!」
その声は小さな体から想像もつかないほどの大音量で、グランティスは思わず両耳を手で塞いだ。
「しーしーっ!静かに!バレるって!」
グランティスは慌てて人差し指を口元に当て、シエルを制しようとする。
「うるさいっす!仲間を置いて逃げるなんて言葉を口にする奴は、冒険者失格っす!」
シエルは勢いよく杖を振り回す。
その瞳には烈火のような怒りが宿っていた。
「お前だけ逃げればいいっす!自分は師匠と共に戦うっす!」
「おいおい……」
グランティスの困惑した顔を横目に、遥斗は静かに二人の会話に割り込んだ。
「グランティスさんに居なくなられると困るんだけど」
遥斗の声は落ち着いているようでいて、その中に微かな軽蔑が混ざっていた。
「冗談だって、冗談」
彼は前髪をかき上げながら、キリッとした表情で言い放つ。
「仲間を置いて逃げるわけねぇだろ!俺はエルフの戦士だぜ?」
「こいつ本当にいい加減にしろっす!」
シエルが侮蔑の表情で睨む。
「エルフ族の面汚しっす!」
グランティスの自信に満ちた態度とは裏腹に、遥斗はエメラルドオーガの様子がおかしいことに気づいていた。
オーガが静止していたのは、何か理由があるはずだ。
その時、エメラルドオーガが突如として動いた。
「来るぞ!」
遥斗の警告と同時に、オーガが地面を蹴った。
巨体とは思えない俊敏さで、一気に距離を詰める。
その速度は肉眼で追うのが難しいほどだった。
「くっ……!」
遥斗は素早く魔力銃を構え、連射を開始した。
パンッ、パンッ、パンッ!と鋭い銃声が響く。
弾丸はエメラルドオーガに向かって飛ぶ。
しかし、オーガは見事に銃弾を避け、驚異的な跳躍力で宙に舞い上がった。
月明かりに照らされたエメラルドが、夜空で星のように瞬く。
「うわぁぁぁぁっ!?空から来るっす!」
シエルが上を指差して叫んだ。
三人の頭上から、重力に身を任せたエメラルドオーガが落下してくる。
その姿はさながら隕石、このまま直撃すれば間違いなく命に関わる。
「二人とも避けろ!」
遥斗の叫びに、三人は必死で飛び退いた。
ドゴォォォォォォン!!
エメラルドオーガが地面に着地すると、衝撃で大地が揺れ、砂埃が舞い上がる。
その足跡は地面に深く刻まれ、周囲の木々が振動で揺れ動いた。
(何て攻撃だ……見た目よりも遥かに重いぞ!)
遥斗は衝撃の大きさに目を見開いた。
エメラルドの硬度と重量が相まって、オーガはまるで動く鉱石のようだった。
あの重量に踏みつぶされれば、一瞬で命を落とすだろう。
回復がどうの、という話ではない。
砂埃の中から、エメラルドオーガの姿が浮かび上がる。
オーガは周囲を見回すと、近くに生えていた大木に手を伸ばした。
「おい!あれ……まさか!まずいぞーーー!」
グランティスの絶叫を聞いた時には既に遅かった。
エメラルドオーガは巨木を根元から引き抜き、まるで投擲武器のように三人に向かって投げてきたのだ。
「ひぃっ!」
突然の攻撃に、避ける時間はない。
巨木の影が三人に迫る中、シエルが咄嗟に杖を振り上げた。
「嵐よ、全てを飲み込む渦と成れ!ストームブレイド!」
彼女の詠唱と共に、風の刃が形成され、飛来する巨木に向かって放たれた。
風の刃が木を真っ二つに切り裂き、分かれた幹が三人の両脇を通り過ぎていく。
「危なかったっす……」
シエルの額から汗が流れ落ちる。
しかし息をつく間もなく、エメラルドオーガが再び動き出した。
オーガはダッシュで距離を縮め、シエルに向かって巨大な拳を振り下ろす。
「シエル!」
遥斗は反射的に彼女の前に飛び出し、身体を盾にした。
オーガの拳が遥斗の腕を直撃する。
ドゴッ!
強烈な衝撃と共に、遥斗とシエルは吹き飛ばされた。
それは想像を絶するものだった。
遥斗の腕から骨の折れる音が聞こえ、胸部にも激痛が走る。
内臓のいくつかが損傷したことを、彼は直感的に理解した。
遥斗は空中で体勢を整え、シエルを抱きかかえたまま着地しようとする。
バキッ!
なんとかシエルを守り続け、自分の体を緩衝材にしながら地面に倒れこんだ。
「師匠!師匠!」
必死の叫び声が遥斗の耳に届く。
意識を保とうと努めながら、シエルの様子を確認した。
少し擦り傷はあるものの、遥斗が衝撃を受け止めたおかげか、彼女に大きな怪我はなかった。
「良かった...」遥斗の口から血が溢れる。
エメラルドオーガを見ると、追撃して来る様子はなく、むしろ戸惑ったように立ち止まっていた。
その碧い瞳には、わずかな驚きの色が宿っている。
人族がこれほど脆いとは思わなかったのだろう。
「この野郎ーーーーっ!」
グランティスの怒号が響き渡る。
彼の表情は激怒に歪み、手にしたデスペアが震えている。
「許さねぇぞ!よくもシエルちゃんを!」
グランティスはデスペアを思い切り投げつけた。
チャクラムは空気を切り裂きながら、エメラルドオーガに向かって飛んでいく。
しかし、オーガは片手で顔をガードしただけで、逃げる様子も見せない。
先ほどの攻撃でデスペアの威力を見切ったのだろう。
デスペアはオーガの肩口に当たったが、やはり本体に傷をつけることはできなかった。
「ちっ!」グランティスの舌打ちが聞こえる。
遥斗はこの隙を逃さず、マジックバックから最上級HP回復ポーションを取り出し、一気に飲み干した。
全身が緑の光に包まれ、折れた骨が繋がり、損傷した内臓が修復されていく。
彼は素早く立ち上がり、シエルを見下ろした。
シエルの瞳には涙が溜まっていた。
「師匠……自分のせいで申し訳ないっす……」
彼女の声は震えており、小さな拳が強く握られている。
魔導士の帽子が傾き、その下から覗く表情には罪悪感と悔しさが入り混ざっていた。
遥斗は優しくシエルの頭を撫でた。
「大丈夫だよ、シエル」
遥斗の声は穏やかだが、その目は鋭い光を宿していた。
「これから指示を出すから、すぐに反応して欲しい。できる?」
シエルは涙を拭い、力強く頷いた。
「出来るっす!」
遥斗は振り返り、大声でグランティスにも同じ言葉をかけた。
「グランティスさん!これから指示を出します。すぐに反応できますか?」
シエルを傷つけられたことに怒り心頭のグランティスは、デスペアを握りしめたまま振り返った。
彼の顔には珍しく冷酷な表情が浮かんでいた。
「作戦があるならとっととやれ!」彼は息巻く。
「このクソ野郎、絶対に八つ裂きにしてやるからな!」
遥斗は二人の意思を確認すると、素早く作戦を説明した。
「合図をしたら、デスペアをオーガの喉元に投げてください」
「喉?」グランティスが疑問に思ったようだ。
「はい!生物であれば、ほとんどの種族は喉が弱点です!」
遥斗は冷静に説明する。
「エメラルドの覆いがあったとしても、呼吸のためにどこかに隙があるはずです。そしてオカートを発動して、動きを完全に封じてください」
遥斗の言葉に、グランティスの目が輝いた。
彼はデスペアを手に取り、軽くくるりと回した。
「任せとけ」
彼の声には殺気が混じっていた。
三人の視線がエメラルドオーガに向けられる。
オーガもまた、三人を見据えていた。
次の瞬間、決着がつくことを、全員が感じていた。




