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168話 死を纏う貴族

 窓から差し込む月光が、バートラムの手元で揺らめく深紅のワインを照らしていた。

 領主館最上階の執務室。豪奢な調度品に囲まれた空間で、彼は一人静かにグラスを傾けている。


「ふむ...この85年物は実に芳醇だ。これほどの逸品を独り占めするのは心苦しいな、ゲオルグ」


 バートラムは40代後半。銀髪を後ろで束ね、切れ長の紫色の瞳は知性と狂気を湛えていた。

 黒を基調とした高級な衣装に身を包み、首元には金の装飾が煌めく。

 その姿は貴族としての気品を漂わせながらも、どこか死の気配を纏っていた。


「ククク...」

 低く響く笑い声は、まるで地下の墓所から響いてくるかのよう。

「先に逝ってしまうとは...随分と焦っていたな、友よ」


 グラスを掲げ、満月に向かって乾杯するような仕草を見せる。

「人族を滅ぼし、この世界を救うために...我々の夢、もう少しで...」


 バートラムの言葉には独特の間が空いていた。まるで死者と会話するような、ゆっくりとした話し方。

「私も...すぐそちらに...行けるだろう」


 窓の外では満月が不気味な輝きを放っている。

 その光は地下深くまで届かない。

 領主館の地下では、鎖につながれた冒険者たちが、実験台として非業の運命を待っていた。


「人族の浄化...それは美しい終焉となるはずだ」

 バートラムの瞳が月明かりに照らされ、妖しく輝く。

「私の役目が終われば...そうだな、きっと素晴らしい世界が待っているのだろう」


 グラスを傾け、最後の一滴まで飲み干す。

 深紅のワインは、まるで血のように喉を伝って消えていった。


 満月の光に照らされた執務室で、イーストヘイブン領主は密やかな微笑みを浮かべていた。

 その表情には、生者の世界に別れを告げる者の、どこか愛おしいような感傷が滲んでいた。


 コンコン――

 静かなノックの音が、バートラムの追憶を遮った。


「...誰だ?」

 不審げな声色で問いかける。夜更けのこの時間、誰も彼の執務室を訪れることはないはずだった。


「申し訳ございません。衛兵長のヴィクターでございます」

 扉の向こうから、よく知る側近の声が響く。


「ヴィクターか...入れ」

 バートラムは僅かな間を置いて許可を出した。


 重厚な扉が開き、黒い軽鎧に身を包んだ衛兵長が恭しく一礼する。

「失礼いたします」

「何用だ?こんな時間に」

「グリーズファンガスより報告が入りました。不審な冒険者4名を確保したとのことです」

「ほう...」

 バートラムは静かにワイングラスを置く。


「すでに連行済みとのこと。ご確認いただけますでしょうか」

 その報告に、バートラムは僅かに目を細める。


(グリーズファンガス...)

 彼らの存在を思い返す。

 冒険者狩りの尖兵として、常に期待以上の働きを見せてきた。

 イーストヘイブンの住民でありながら、自らの手で同じ帝国臣民を売り渡す。

 その愚かさと残虐性に、バートラムは密かな愛着すら覚えていた。


(もうすぐ...お前たちも世界の救済のため、相応しい最期を迎えることになるのだが...)

 惜しむような感情が胸をよぎる。


「領主様?」

 ヴィクターの声に、バートラムは思考から我に返った。


「...会おう」

 ゆっくりと立ち上がり、衣装の襞を正す。

「いつものところに来るように伝えろ」

「かしこまりました」

 ヴィクターは深々と一礼し、退室していく。


 バートラムは窓辺に佇み、満月を見上げた。

「これも最後になるかもしれんな...ゲオルグ」


 その囁きは、どこか楽しげな調子を帯びていた。

 地下の実験室のことを知らない部下たちは、ただの牢獄だと思っているのだろう。

 そこが冥府への入り口となることなど、誰も想像すらしていない。


「さて...今宵の贄はどれほどの価値があるのやら」

 バートラムは静かに執務室を後にした。


 螺旋階段を降りながら、バートラムの記憶は遠い過去へと遡っていく。


(そうだ...あの頃は、ただの小さな雑貨商だった)

 イーストヘイブン近郊で、細々と商いを営んでいた日々。

 決して裕福とは言えなかったが、それなりに充実した生活。

 誰もが認める実直な商人として、小さな村の片隅で暮らしていた。


「ククク...なんと愚かな生き方だったことか」

 自嘲的な笑みを浮かべながら、さらに階段を下っていく。


 世界の真実を知らなければ、今でもあの店で商売を続けていたかもしれない。

 だが運命は彼に別の道を示した。

 クロノス教団との出会い。

 そして、この世界が滅びゆく運命にあることを知らされた時の衝撃。


(あの方との出会いがなければ...)

 思い出すだけで背筋が凍るような威厳を持つ存在。

 その方の言葉は、バートラムの人生を根底から覆した。


 教団の秘儀によって、彼は新たな職業を得た。

 生から死へ。

 死から生へ。

 その変貌は、まさに蝶が羽化するかのようだった。


 やがて、イーストヘイブンの領主となり、教団の意志を実現するための歯車となった。

 それは決して後悔のない選択だった。


「ここまで来れたのも、全てあの方のお導きがあってこそ」

 低い声で呟きながら、バートラムは最後の段を下りていく。


 地下室の重い扉が、彼の前に姿を現した。


「さて...」

 バートラムは静かに扉に手をかける。

 その紫の瞳には、もはや人としての感情など微塵も映っていない。


 重い扉が開くと、松明の灯りが揺らめく広い地下室が現れた。

 いつもの場所に立つアイアンシールドの三人と、床に転がされた四つの小さな影。


「ケヴィン、サラ、アレクス...ご苦労だったね。今日も...素晴らしい働きぶりだ」

 バートラムの声が、地下室に響き渡る。


 ケヴィンが爽やかな笑顔を浮かべ、軽く会釈する。

 サラは慎ましく頭を下げ、アレクスは黙ってその場に佇んでいる。

 いつもと変わらない三人の様子に、バートラムは満足げに頷く。


 床に転がされた四人は、縄で縛られ、目隠しをされている。

 その小さな体躯から、まだ成長期の少年少女であることが窺える。


(ほう...これは上出来だ)

 バートラムの紫の瞳が妖しく輝く。

(若い...それも貴族の冒険者のようだ。エルフの国への贄として...申し分ない)


 実験の材料としても価値はあるだろうが、これほど若い人族なら、あの方への献上品として相応しい。

 そう考えると、バートラムの心は歓びに満ちていく。


「君たちの働きには本当に感謝している」

 にこやかに微笑みながら、バートラムは三人に向き直る。

「イーストヘイブンの平和は...君たちの尽力なくしては...ありえない。これからも共に帝国貴族へ...我らの怒り...思い知らせてやろうぞ!」


 その時、彼はまだ知らなかった。

 この夜が長年の計画の終わりとなることを。

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