165話 裏切りの果てに
ケヴィンの瞳が、戦場の向こうを捉えていた。
目の前では少女が剣を構えているというのに、彼の意識は完全に別の場所に向いている。
「ゲイブさん...」
赤熱の槍を握る手に力が入る。
ゲイブの変わり果てた姿に、彼の心が引き裂かれそうになる。
かつての豪傑、誰よりも武の道を極めんと己を磨き上げた男が、今は地を這いながら助けを求めている。
その姿は、あまりにも痛ましく、見るに耐えないものだった。
「なんで...こんな事に。俺たちは何か間違えたのか?」
ケヴィンの爽やかな表情が、苦悩に歪む。
遥斗の存在は、彼の想定を遥かに超えていた。
「くっ...」
赤熱の槍を振るう手が、一瞬震える。
(リリアンの仇を討つために...ここまで来たのに)
心の奥底で、長年抱えてきた怒りと復讐心が蠢く。
アレクスの妹、リリアンを死に追いやった者たち。
貴族や権力者への憎しみ。
それは彼の心を支配し続けた業火だった。
「ケ、ケヴィーーーン!」
ゲイブの絶叫が、彼の耳に突き刺さる。
(もう...いい)
ケヴィンの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
憎しみも、怒りも、全てが色褪せていく。
今この瞬間、彼にとって大切なものは一つだけ。
共に戦い、苦楽を共にしてきた仲間の命だった。
「悪いがここまでだ」
ユーディに向かって一瞥すると、ケヴィンは躊躇なく駆け出した。
赤熱の槍を構え、遥斗とゲイブの間に割って入る。
「遥斗君、これ以上は...!」
「ケヴィン!ケヴィーーーン!助けてくれ!」
ゲイブは地を這いながら、藁にもすがる思いでケヴィンの足に縋り付く。
かつての豪傑の面影など微塵も感じさせない。
「ケヴィンさん、どうしたの?なぜ邪魔するのかな?」
遥斗の声が静かに響く。
その一言で、ケヴィンの全身が凍り付いた。
漆黒に染まった瞳には、もはや人間の感情など僅かも映っていない。
まるで深淵そのものを覗き込むような、底知れぬ暗さを湛えている。
(何なんだこれは...)
ケヴィンの背筋を、得体の知れない感覚が走り抜ける。
死を振りまく者でも、命を奪う者でもない。
ただ冷徹に、実験対象を観察するような視線。
それは人間が持ち得る感情の範疇を完全に超えていた。
生も死も、ただの変数のように扱う異質な存在。
「こんな事を頼むのは筋違いだと分かってる。でも...ゲイブを、俺達を許してくれないか?」
「許す?」
遥斗が首を傾げる。
その仕草は、まるで興味深い現象を目にした研究者のように見えた。
ケヴィンの額から、冷や汗が流れ落ちる。
赤熱の槍を構えた腕が、微かに震えている。
戦いの中で感じた事のない、本能的な恐怖が全身を支配していく。
これは人を相手にした戦いではない。
例えていうなら、そう虫だ。
分かりあえる事もなく、言葉が通じる事もない。
絶望的で絶対的な溝。
そう直感した時、ケヴィンの心に確信が芽生えた。
もはやこの場から逃げ出すことすら、許されないかもしれないと。
それでも懇願する。
「俺たちは君が憎くて戦ってたんじゃない!貴族に対して反旗を翻していただけだ。俺たちは被害者なんだ。ゲイブさんだってそうだ。奥さんと子供を...」
「それで?」
「えっ?」
「君たちの今の状況は結果論でしかないよね?もしも僕たちが負けていたら売り飛ばしていたんでしょ?僕達死んでいたかもしれないんだよ」
「そ、それは...」
「僕たちは何もしていない。なのに殺そうとした。だから殺す。僕間違ってる?ねぇ?教えてよ」
言葉が喉に詰まる。
ケヴィンは遥斗の問いに、何も答えることができなかった。
それは余りにも正論すぎて、反論の余地すら与えない論理だった。
(確かに...俺達は...)
自分達の行為を正当化する言葉が、一つも見つからない。
復讐という名の下に、罪のない者たちを巻き込もうとしていた。
その事実から、目を背けることはできなかった。
「くそっ...」
ケヴィンは赤熱の槍を強く握り直す。
体は恐怖で震えている、それでも戦う覚悟を決めた。
その時、一陣の風と共に、ユーディの姿が現れる。
「二対一か...構わない!覚悟はできている」
震える声で、それでも毅然とケヴィンは告げる。
「佐倉遥斗。もうよいのではないか?」
少女の声が静かに響く。
「どうして?」
遥斗の問いに、ユーディは深い緑の瞳で真っ直ぐに応える。
「奴らも帝国の民だ。たとえ過ちを犯したとしても、我が民である事に変わりはない」
「でも君たちを殺そうとしたんだよ?」
「珍しくもない、そういうものだ」
ユーディの唇が柔らかく歪む。
「民を守るべき者が、民を見捨てては本末転倒であろう?」
「そっか...ユーディらしいね」
漆黒に染まっていた遥斗の瞳が、柔らかな茶色に戻っていく。
その言葉と共に、戦場に張り詰めていた空気が、静かに溶けていった。
「皆の者!戦いを止めよ!」
清冽な声が山肌に響き渡る。
「ヴァルハラ帝国皇帝、エーデルガッシュ・ユーディ・ヴァルハラが命じる!」
「こ、皇帝陛下...」
ケヴィンの喉から、震える声が漏れる。
数時間前なら、一笑に付したかもしれない。
12歳の少女が皇帝を名乗る?そんな戯言を、誰が信じるだろうかと。
だが、今は違う。
その小さな体には、確かな威厳が宿っていた。
まるで生まれながらにして皇帝の器を持つ者のように、圧倒的な存在感を放っている。
カランと音を立て、赤熱の槍が地面に転がる。
ケヴィンの膝が折れ、額が地面に付く。
「陛下...申し訳ございません...」
その横では、ゲイブも震える体で地に伏していた。
先ほどまでの怯えた態度は消え、ただただ畏怖の念だけが残されている。
戦場に散らばっていた賊たちも、次々と平伏していく。
皇帝の前で、もはや抵抗する意思など微塵も残っていなかった。
シルヴァリス山脈の斜面に、深い静寂が広がっていった。
それはユーディ、いやエーデルガッシュの威光の前に、全てが平伏した瞬間だった。




