119話 皇帝の涙
遥斗は皇帝の小さな手を引きながら、必死に階段を降りていく。銀色のライトアーマーをまとった少女の姿が、夜の皇城に煌めいていた。
踊り場を曲がり、さらに階段を下りると、黒鉄の柱が並ぶ長い廊下が現れた。
月明かりに照らされた床を、二人の足音が刻んでいく。皇帝の整った足取りは、この緊迫した状況下でさえ気品を失わない。
「陛下、もう少しです」
遥斗の声が上擦っている。走り続けて息遣いが荒くなってきた。
それでも前へ。城の出口を目指して二人は走り続けた。
ようやく廊下を抜け、開けた中庭に出る。
夜空に映える巨大な炎の柱が、二人の視界に飛び込んできた。燃え上がる幽閉塔は、まるで巨大な松明のように城の一角を照らし出している。その明かりに照らされた塔周辺では、想像を絶する光景が広がっていた。
血まみれの巨熊が爪を振り回し、獅子の頭が咆哮する。その影が月明かりと炎の光の中で不気味に揺らめく。さらに鷲の翼を持つ怪物が城壁に体当たりを繰り返し、石造りの壁がひび割れていく。剣と牙がぶつかり合う音、魔法の詠唱、兵士たちの叫び声が入り混じる。
城の出口までの最短距離を取ろうと、芝生の上を走り出した時だった。
エーデルガッシュが、草に足を取られて転んでしまう。
「へ、陛下!大丈夫ですか!」
遥斗が息を切らしながらも、皇帝を気遣う。
その声は優しいが、背後に迫る脅威に切迫感を含んでいた。
皇帝が立ち上がらない。怪我をしたのかもしれない、と遥斗の脳裏に最悪の事態が過る。
「もう...いい」
震える声が漏れる。銀色の髪が幽閉塔の炎に照らされ、その姿には諦めと絶望が浮かんでいた。
「父上と母上の敵も取れず...帝国も、こんな...滅茶苦茶に!」
エーデルガッシュは地面に突っ伏したまま、顔を上げようとしない。その姿勢は、皇帝としての威厳が失われ、ただの少女がそこにいる事の証だった。
「誰も...誰も信用できない。もう、信用したくもない」
「余は...ずっと一人だ。一人きりで生きてきた。あんな化け物と戦えない。ここで...ここで余は死にたい!父上と母上の所に逝かせてくれ!」
その声には、12歳の少女が背負うにはあまりにも重すぎる孤独が滲んでいた。小さな肩が震える様子に、遥斗の胸が締め付けられる。
遥斗の胸に、怒りと共感が込み上げる。
先ほどまで見た、今なお皇帝を慕い戦う兵士たちの姿。それを無にする少女の言葉に、怒りすら覚える。
しかし、それでも「ずっと一人」という言葉の意味も、痛いほど分かった。
クラスメイトに置いていかれ、王国には必要とされず、ずっとずっと誰からも空気のように扱われ―
でも、この少女には、信じてくれる人がいる。
その人達のためにも、ここで死んではいけない。
「僕が守ります!」
突然の声に、皇帝の肩が小さく震える。銀色の髪が、夜風にそっと揺れる。
「僕が味方になります!絶対に見捨てません!」
遥斗は叫んでいた。
それは自分がずっと聞きたかった言葉。
ずっと待ち続けていた、誰かの声。
そっと、エーデルガッシュが顔を上げる。
遥斗を見つめる瞳には、まだ涙が光っていた。その透明な雫が、宝石のように輝いている。
「本当に...?」
その声には、少女らしい不安と期待が混ざっていた。
遥斗は目の前の少女を、心の底から守りたいと強く思った。
無理やりに笑顔を作る。その表情に吸い込まれるように、エーデルガッシュが小さな手を差し出してくる。白磁のように繊細な指が、月光に透けて見える。
それを握り、遥斗は皇帝を立ち上がらせた。
「ありがとう」
立ち上がる仕草に、不思議な威厳と可愛らしさが同居していた。
周囲を見渡すと、あちこちでモンスターが暴れているのが分かる。翼竜が宮殿の尖塔に体当たりし、青狼が庭園の噴水を粉々に砕いていく。しかし、その破壊行動には目的も戦略も感じられない。まるで野生の獣が気の向くままに暴れているかのようだった。
兵士たちと戦っているモンスターたちも同様だ。強大な力を持ちながら、その動きは単調で洗練さを欠いていた。アディラウスとグリフォンガードが見せた、あの息の合った連携とは、まるで別物のように見える。
(そういえば...)
遥斗は思い返していた。グリフォンガード自体は、確かに独自の判断力を持って動いていた。モンスターにも意思があり、自由に行動する――それがこの世界の常識のはずだ。
(どうやって意思統一を...?)
モンスターテイマーなら直接指示を出せるはずだが、どこを見ても指示を出している人間の姿はない。ただ無秩序に暴れ回るモンスターたち。その不自然さが、遥斗の心に引っかかる。
「どうした?何か困っているのか?」
物思いに沈む遥斗に、エーデルガッシュが声をかける。その声には、謁見の間での冷徹な感情は微塵も感じられない。
「いえ、モンスターのいない方向に逃げたいのですが...」
涙を拭いながら、皇帝が微かに頷く。
「分かった、しばし待て」
エーデルガッシュは両手を天に掲げる。銀色の髪が、夜風に優雅にたなびく。
「ゴッド・アイ!」
その声と共に、とてつもない黄金の魔力が天より降り注ぎ、皇帝の体を包み込んでいく。まるで月光が集約したかのような光が、少女の周りを取り巻いていた。その姿は神々しく、遥斗は思わず目を見開く。
「あちらだ」
皇帝が一点を指差す。その指先には確かな自信が込められていた。
「今のは...?」
何が起きたのか理解できない遥斗に、皇帝が静かに説明を始める。
「この城周辺のモンスターの位置を確認した」
ゴッド・アイは指定した地域の種族、レベル、位置が大まかに分かる能力だという。その説明は簡潔でありながら、的確だった。
(まるでレーダーだ...)
この世界でレーダーが使えるなら、それは戦争において絶対的な優位を生む。敵の位置も、戦力も、全てが把握できる。その能力の凄まじさに、遥斗は愕然とする。
黙り込んだ遥斗が、詳細な情報が欲しがっていると勘違いをしたエーデルガッシュ。
「なんだ、分かりにくいのか。それなら...」
皇帝が目を瞑ると、突如として遥斗の脳裏にイメージが流れ込んでくる。まるで三次元の地図のように、城周辺の魔力を測定したデータが広がっていく。そこには魔力特性からモンスターの種族を判別し、克明なデータが表示されていた。
その精緻なデータの中には、モンスターの位置を示す赤い点が無数に散りばめられている。それぞれの点の大きさや色の濃さが、モンスターの強さを表しているのだろう。
(そうか...これが皇帝たる所以か)
遥斗は、エーデルガッシュが何故皇帝なのか、その理由を深く理解していった。12歳の少女の中に宿る、この圧倒的な力。それは皇帝だけが持つ、この世界を統べる優位性、神の力だった。




