118話 アラクネイア
「神獣アラクネイア...」
皇帝の震える声が、静寂の中に響く。月明かりに照らされた少女の表情には、これまでにない恐怖の色が浮かんでいた。
「かつてレギアス・ソル近郊に現れた、人知の及ばぬモンスター」
エーデルガッシュは言葉を継ぐ。そこには、古い記録の中でしか知り得なかったはずの、生々しい恐怖が佇んでいた。瞳に映される光景は悪夢そのもののようだ。
「帝国は幾度となく軍を挙げ討伐に向かったが、全て返り討ちにあい、誰も帰って来なかったらしい。兵士、住民、動物問わず、ミイラのような姿で発見された。何十年もの間、その被害に悩まされ続けていた伝説のモンスターだ」
皇帝の声は次第に冷静さを取り戻していく。幼いながらも、為政者としての責務を全うしようとしていた。
「しかし、10数年前...」
「ゲオルグは数名のみでアラクネイアを討伐した。その知略を買われ、帝国軍参謀府に迎え入れられ...そして宰相の座まで上り詰めていった」
突如、謁見の間に冷たい風が吹き抜ける。巨大な蜘蛛の体から放たれる魔力が、空気そのものを歪めいく。
(そうか...)
遥斗は情報を整理し始める。混沌とした状況の中で、真実を見据える。
(策謀によるものではなく、モンスターフューザーの能力だったんだ。討伐などではなく...融合)
12本の脚を持つ巨大蜘蛛が、その身体に似つかわしくない速度で動き出す。その一歩一歩が、大地を震わせる。8つの目が不気味な光を放ち、周囲全てを見通していく。それは生きた要塞とでも呼ぶべき存在だった。漆黒の装甲のような外皮には、月の光さえも吸い込まれていくようだ。
イザベラが隙を伺うが、放たれるプレッシャーに体が縛り付けられたように動かない。剣を構えたまま、一歩も踏み出せない。帝国騎士をも圧倒するその実力は、この化け物の前では無に等しかった。
額から流れる冷や汗。緊張で強張る筋肉。それでも、イザベラの瞳には決して諦めの色は浮かばない。
「この程度の圧で...」
イザベラは歯を食いしばる。その姿には、王国最強騎士団の戦士としての矜持が滲んでいた。
しかし遥斗には分かっていた。
(このままでは...全滅する)
全身に不吉な予感が走る。それは生存本能からの警告のように感じられた。まるで死神が背後に忍び寄るような、底知れぬ恐怖。
イザベラは一瞬、遥斗と目を合わせる。
「皇帝陛下を連れて逃げてください」
イザベラは迷いなく言った。歴戦の戦士としての判断と、揺るぎない覚悟。
遥斗は一瞬躊躇う。生存確率が低く、友を見捨てるような選択に。心が軋む。しかし、イザベラの立ち位置が自分と皇帝を守る最後の盾となっていることに気付く。この場に残れば、むしろ自分たちは足手まといになるだけだ。
「お願いします」
互いの信頼が、短い言葉に込められる。遥斗は皇帝の小さな手を取り、走り出した。
「逃がすわけなかろう」
人間ではありえない高周波が混じったような声が響く。それは人と蜘蛛が融合した存在からの、歪な響きを持った鳴声だった。しかしその中に、確かにゲオルグの意識が残っているのが分かった。
(まずい、人としての意識があるなら、あくまで狙いは皇帝...)
遥斗は足を止めることなく走り続ける。皇帝の細い指が、彼の手の中で震えているのを感じる。
イザベラが二人の逃走を支えるため、アラクネイアに立ち向かう。
剣を頭上に構え、魔力を解き放つ。放たれた魔力は、まるで夜空のような光景を作り出していく。深い闇を背景に、無数の光点が浮かび上がる。
「スターフォール!」
イザベラの声が夜を切り裂く。
満天の星空から無数の光が降り注ぐ。まるで流星群のような光景。謁見の間が、一瞬昼のように明るくなる。
しかし、蜘蛛の体に直撃した光は、まるで霧のように消え去っていく。
これは単に堅いとか、耐久力があるという次元の話ではない。イザベラの攻撃スキルは確かに強大な力を持っている。しかしアラクネイアにとって、レベルの低い攻撃スキルは完全に無効化されてしまう。これこそが神獣と呼ばれる所以だった。
「まさか...私の攻撃が...?」
イザベラの声に、困惑の色が混じる。
「っ!」
12本の足を器用に動かし、アラクネイアが高速でイザベラに迫る。その動きは巨体を感じさせない程しなやかだった。
眼前に迫る巨大な蜘蛛の前脚2本が鋼鉄の鋏のようにイザベラへと向けられる。月光の下、その鋏が不吉な輝きを放つ。
それは鋼鉄をも引き裂く一撃だったが、イザベラは軽やかに宙を舞い、見事に躱す。長年の戦いで培った直感が、彼女の体を自然と動かしていく。
さらに、その動きがそのまま空中での斬撃に繋がり、僅かながらアラクネイアの体表を傷つけることに成功する。
黒い外皮に走った傷跡から、紫がかった体液が滴る。しかし、アラクネイアの動きは一向に鈍る気配がない。むしろ、その傷がより一層の昂ぶりを引き起こしたかのようだ。
遥斗は皇帝の手を引きながら、イザベラの無事を祈る。
自分たちさえいなければ、イザベラなら逃げ切れるかもしれない。
その思いが、更に足を加速させていった。
廊下に響く二人の音。それを追いかける不気味な音。そして背後で繰り広げられる壮絶な戦いの音。
全てが混ざり合い、この夜をより一層の緊迫感で満たしていく。




