107話 謁見の日
リッター邸の中庭に、柔らかい日差しが降り注ぐ。
黒と金の装飾が施された皇室御用達の馬車が、帝国の紋章を煌めかせながら到着していた。その豪奢な作りは、軍事国家ヴァルハラ帝国の威光を示すかのようだ。
「エリアナ様、遥斗様、お時間でございます」
執事が厳かに告げる。
御者は帝国軍の制服に身を包み、その佇まいからも厳格な訓練を受けていることが窺えた。馬も通常の馬車馬とは明らかに異なり、帝国が誇る軍馬の血を引く優れた品種だった。
遥斗は部屋で最後の身支度を整えていた。
アディラウスから貰った服は、魔力を帯びた高級な素材で仕立てられているとはいえ、帝国貴族の正装に比べれば質素なものだ。ただ背中のマントだけは、帝国の魔導技術の粋を集めたかのような気品を漂わせていた。
「エレナ、これ預かっててもらえるかな。持っていけないや」
遥斗がマジックバックを差し出す。
「ええ、任せて。絶対に失くさないから」
エレナの声には、少しの不安が混じっていた。
これまでの旅で、遥斗がこのバックに命を預けてきたことを、彼女は誰よりも理解していたからだ。
「大丈夫、心配するな」
ガイラスが静かに声をかける。
「エリアナ様がいらっしゃる。帝国も礼を失するようなことはないはずだ」
「そうね」
エレナは強がりの笑顔を見せる。
「ただの儀式みたいなものよね」
その時、階段を降りてくるエリアナの姿に、皆が息を呑む。
純白のドレスは、まるで朝の光を集めたかのように輝いている。王家に伝わる装飾品の数々は、単なる飾りではなく、アストラリア王国の歴史そのものを物語っていた。そして頭上で輝く愛用のティアラは、まるで意思を持つかのように聖なる光を放っている。
その姿は王女としての威厳と気品を完璧に体現しており、遥斗も思わず見とれてしまった。
(こんなに違うものなのか...正装って)
「昨日の練習を忘れるなよ」
マーガスが最後のアドバイスを送る。
「王国の誇りにかけて恥ずかしい真似はするな。特に顔を上げるタイミングだ」
「大丈夫」
トムが励ますように声をかける。
「昨日、完璧に出来てたもんね。それに遥斗くんなら...」
「皇帝陛下の前でも臆することはないだろう」
オルティガが珍しく口を開く。
「フェルドガルドであれだけのことをやってのけた男だ」
「だからこそ無用な警戒を見せるのは得策ではない」
ナッシュが厳しい声で続ける。
ガイラス隊全員が緊張した面持ちで二人を見守る。
「では、行って参ります」
エリアナが優雅に一礼する。その仕草には、昨日の練習相手だったエレナをはるかに超える気品が漂っていた。
「行ってきます」
遥斗も深く頭を下げる。
マジックバックこそないものの、その姿勢にはいつもの遥斗が垣間見えた。
馬車のドアが静かに閉じられ、車輪が動き出す。
見送る者たちの胸には、言い知れぬ不安が入り混じっていた。
エレナは預かったマジックバックを強く抱きしめる。
馬車に乗り込むと、ブリード・フォン・リッターがすでに席についていた。その鋭い眼光は、昨日と変わらず相手を値踏みするような鋭さを保っている。
「お二人とも、準備はよろしいようですね」
軍務尚書の声には、些かの隙も感じられない。
エリアナが優雅に会釈を返すのを見届けながら、ブリードは窓の外に目をやる。
レッドワイバーンの編隊が空を舞う様子が目に入る。つられて遥斗もその様を見た。
「頼もしい戦力ではあります」
その声には評価と警戒が混じっている。
「しかし、人とモンスターが本当に共存出来るのでしょうか。彼らは所詮、人の理を超えた存在です」
遥斗はその言葉に、フェルドガルドでの戦いを思い出していた。
「皇帝陛下は、さらなる拡大を望んでおられるようですが」
エリアナが静かに問いかける。
「陛下...というより宰相殿ですね。ゲオルグ卿の政策には、大きな効果があったのは認めます」
ブリードの表情から、慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「ですが、モンスターへの依存は、我が国の本質的な強さを損なうことにもなりかねない」
そして遥斗に視線を向ける。
「異世界から来られた方々を、脅威と見なす意見もありますが...」
その目は遥斗を冷静に観察している。
「個人的には、些か短絡的な考えだと思っております」
(この人は...)
遥斗は軍務尚書の言葉に、警戒と現実的な判断の両方を感じていた。
「しかし、油断は致しかねますが」
ブリードの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「この世界に、完全な味方などいないことは、私の長い経験が証明しております」
「闇の脅威が迫る今こそ、人は手を取り合うべきではないでしょうか」
エリアナの声には強い意志が込められていた。
「なるほど」
ブリードはやや意味深な表情を浮かべる。
「であれば、今や国力の弱ったアストラリア王国は...帝国の庇護下に入るべきだと?」
その言葉に、エリアナの表情が強張る。
「いいえ、そういう意味では...」
「失礼、冗談です」
ブリードは言葉を和らげる。
「私も...闇の勢力の台頭は気がかりです。しかし、それぞれの国には、それぞれの在り方がある」
会話の途切れた窓の向こうに、突如として巨大な影が立ち現れる。
帝国皇城。
黒鉄の城壁が、まるで巨大な牙のように天を突き刺している。アストラリアの白亜の王城とは対照的な、剣呑な威容だった。
城門では巨大なブラッドベアたちが、不動の守護者として威圧的な存在感を放っている。城壁の上ではフロストウルフの群れが絶え間なく巡回を続け、その青白い毛並みが朝日に煌めいていた。
重要な壁上の要所には、フレイムキマイラが控えており、その炎を携える姿が訪問者を威嚇するように見下ろしている。グリフォンガードは建物の上層部で警戒に当たり、鋭い眼光が城下の隅々まで届いていた。
そして空では、レッドワイバーン部隊の編隊が完璧な陣形を保ちながら旋回を続けている。
「これが...ヴァルハラ帝国の城」
思わず漏れた遥斗の言葉に、ブリードは静かに頷く。
「我が国の象徴、そして威信。この城は、まさに力の具現なのです」
遥斗は唾を飲み込む。
巨大な城門が開かれ、馬車が中に入っていく。
二頭のブラッドベアが門柱から身を乗り出すように視線を向けてくる。その眼光に、遥斗は思わず背筋を正す。
ブリードが静かに告げる。
「皇帝陛下は...あなた方が思っているような方とは、少し違うかもしれません」
「どういう...」
遥斗が問いかけようとした時、馬車は急に速度を落とした。
「到着しました」
ブリードは遥斗の言葉を遮るように立ち上がる。
その表情からは、先ほどの言葉を忘れてしまったかのような、公務に徹した雰囲気だけが感じられた。




