『ゼイリブ』2
ある社会に一人の男が居た。仮にその男を「レスラー」と呼ぶ。
レスラーは自身が生まれ育ったその社会にずっと馴染めずにいた。子供の頃から学校が苦手だった。よくからかわれたが、彼には理由がわからなかった。
時々唐突に後ろから尻を蹴られる。或いは石を投げられる。それにやり返せば野蛮だ過剰防衛だと叱責され、されるがままにするならどこまでも嘲笑され、人格を無視された。
彼にとっての初めの社会である学校生活とはそのシーソーであり、中間の均衡は無かった。
筋力は強い。それで筋力を存分に有効に使える様に思えた格闘技の世界に入門したが、やがて(彼にとってはほんの些細な)ルールを守れなかったという廉で追放されてしまった。
そうすると、彼にはもう、この社会のどこにも居場所は無かった。
家は無かった。肉親には格闘技をする前から嫌われていたし、彼もそんな親を嫌っていた。
彼は、路上を歩く。強い腕力はそのままだから、その腕力に頼って、人から物や金を強奪して生きて行くべきなのかもしれない。しかし、そうすればやがて国家や警察であるとかの巨大機構を相手にしなければならなくなるのは明らかであるし、彼らに捕まった後には、あの裁判所とかいう不可解で長ったらしい寸劇の舞台が待っている。
レスラーは訴訟というものを極度に恐れ忌み嫌っていた。そこには彼にとって不可解な怪物である社会の、本体があるように覚えていた。法は、レスラーのものではなかった。そこではこの実社会にさらに輪をかけて、言葉を絶対のツールとしたやり取りが為されてはいるのだが、しかしその一つとして彼の使える様な言葉は存在しない。言葉は常に彼の気持ちを裏切る道具だ。しかしその道具を上手く使えない者は、どんな場所でも、たとえ略奪や四肢の支配を受けても、犯行も許されない。司法の場はその最たるものだった。過去の経験から、その事はありありと推察されるのだった。
社会がいつも彼のものでないのは、彼の言葉が社会にまるで通じないからだった。それでいて、彼は社会の言葉にその境遇を左右されてしまうのだ。
レスラーがそのサングラスに出会ったのは、そうして雨の降らない乾いた街をふらふらと歩いていた時だった。
それが置かれていたのは、或るゴミの埋め立て場だった。彼は、そのゴミの埋め立て場だけは安らげて緊張せずにいられた。埋め立て場は社会の一部でありながら、彼が居てもとやかく言われない数少ない場所に感じられていた。しかもそこは海に面していて、埋め立てれば埋め立てる程に、土地が増える。これはレスラーに、現行の「不動産」という、自然に反していて不条理なしかし法的に確固とした概念からの抜け穴を提供している様に感じさせて、好ましかった。時々メタンであるとかのガスに引火するとかで、爆発事故が起こった。他人はそれを危険だと忌み嫌うけれど、彼にはこれだって好ましかった。爆発に巻き込まれれば死ぬというのは自然の道理で、そして爆発と共に地形も変わってしまうのも自然の道理だった。それを見るとレスラーは「地震や火山だって同じさ」と思い、自分の危険さえ忘れて、かえって安らぐ。不動産だなんて、ちゃんちゃらおかしい。地震や火山活動で大陸でさえゆっくりと移動していくこの自然界で、ちょっとした大雨で山が大きく浸食されて流れてしまうこの世界で、「不動」だなんて滑稽だ。そんな風に、自分一人の心の中で言葉にもならないまま笑っては、安らいでいる。
ゴミの埋め立て場は自分に似合っている場所だと思った。そんな所でこの、半分フレームの曲がった変に大きいサングラスを見つけたのだったから、彼は、それを自分の物なのだと自然に思い込むことが出来た。社会の外側にある、自然から授かったものだと思った。自分の肉体以外に自分の思い通りになる事が少ない(そして場合によっては自分の肉体でさえも自分の思い通りにならない事の多い)この社会で、彼、レスラーは珍しく、拾った物を自分の物にする事が出来たのだった。
そしてその折れ曲がったでかすぎるサングラスが、普通の暗い像を映すだけの物でないことには、直ぐに気づいた。通りを歩く人間たちは、この地方都市では決して多くは無かったけれど、そのどれもがサングラスを通した時、二目と見られぬ、骸骨や死体を思わせる不気味な、青白い、異形の顔で映し出されるのであった。そのサングラスを外せば、また普通の人間の姿に戻る。掛ければ、またその宇宙人かゾンビかを思わせる怪物に早変わり。
彼は初めの内こそ混乱し、恐怖していた。だがやがてその残酷なほど醜い顔達にも慣れてきてしまって、そしてある一つの結論に達した。レスラーはそれまでの人生経験と符合させ、こう考えた。「ああそうか分かった。こいつらの中身は、皆こういう顔の怪物だった訳だ。俺が馴染めない筈だ。奴らは初めから、人間じゃなかったんだもの。もしかしたらこの世界には、人間は俺独りぼっちなんじゃなかろうか?」
そしてレスラーは、決めた。このサングラスを通しても姿の変わらない、変わらず美しいままの、「本当の人間」を探しに行かなくちゃ。彼女こそ(いや、異性とは限らないのだったが、この時興奮状態のレスラーにはそう省みる冷静さはもう残っていなかった。単純で前時代的に野蛮な彼にとって、その混乱した頭での想像に耐え得る運命の人間とは、即ち天使の様に美しくて優しい女の事だった)、自分が、この馴染めもしないくそったれの社会に生まれてきた事を初めて肯定できる様になる確かな意味を、その内に秘めた存在なのだ。
そうして歩き始めた矢先だった。彼が、その折れ曲がってサイズすら合わない出来損ないのサングラスを通して、鏡、つまりそこに映っている己の顔を、初めて目の当たりにしたのは。
彼は、通りを歩く冷たくて不気味な連中と何ら変わらない、怪物の顔をしていた。間抜けにもサングラスを掛け、真実らしきものを見ているらしい、自分と同じ服装をした怪物。それがそのサングラスを通して見る真実の、もう一つの側面だった。
彼は泣いた。泣きながら思った。「ああ、俺もまた人間じゃなかった。俺が思っていたような意味では人間ではなく、俺が忌み嫌っていた社会に巣くう怪物の一種に過ぎなかった」
長い事泣き続けて、そうしてから、それでも、と祈るように思ったのだ。「それでも、俺は探しに行かなくちゃ。誰かが、どこかにいるんだ。俺が思ったように『人間』である誰かが。サングラスを通して見ても変わらない姿で居てくれる誰か。本当の『人間』。そう、それが、どこかにいてくれなくちゃ。俺は自分の思う『人間』じゃあなかったけれど、でもきっとどこかに、まだ残っている筈なんだ。そうでなけりゃ…」
彼は歩き続けた。彼の嫌いな、そして彼も嫌われ続けた街の舗装路の上を歩き続けた。雨の日も風の日も、風食の様子さえ定かでない路上を歩き続けて、どこかへ消えた。