7 お呼び出し
桃林の客だった男は、それなりに地位のある文官だったらしい。
その死の知らせは瞬く間に広がり、市井でも話題となっていた。
「見込みが期待された、優秀な人だったらしいわよ。」
蘭世が煙管をふかしながらぼやく。
「自分で首を吊ったんでしょう?足元には遺書もあったっていうしねえ」
「その遺書のことなんだけど…桃林を殺したのは自分だって書いてあったらしいわ」
「ますます分からなくなってきたわねえ」
蘭世と丹華は不安気な様子で話し続ける。葵はそれを聞きつつ、天を仰ぐ。
日が傾きかけている。というのに、いつも蘭世が控えている山吹の間に三人は集まったままなのである。
「支度をする気も起こらないわね。」
「どうせ今日来て下さる旦那様たちは皆、その文官の話で持ち切りでしょう。ここ最近は高官たちが次々と体調不良を訴えて倒れていっているというし、旦那様たちも不安そうだもの。」
「なんだか不穏な世の中になってきたわねえ」
ね、と丹華に話を振られ、葵はようやく我に返る。
「葵は今日はどこの旦那様がいらっしゃるの?」
蘭世が話題を変えようとする。
丹華や葵くらいの高級妓女になると、事前に旦那様から文をもらっていることが多く、突然来たお客をとることは珍しい。
「今日はお呼び出しなの。早く帰れたら良いのだけれど。」
葵が答えると、丹華が心配げな様子を見せる。
「お呼び出しはいつもの旦那様?」
「うん」
「そう…気を付けるのよ。さっきも言ってたけど、何が起こるか分からないからね」
「ありがとう」
すると、突然後ろの戸が勢いよく開けられる。
「お前たち!気乗りしないのは分かるけど、いつまでもグズグズしてんじゃないよ!さっさと支度しな!特に葵!あんたは後四半刻もすれば迎えが来るんだから、急ぎな。」
女主の急かす声に、はいはい、分かったよ。と丹華に続いて葵も立ち上がる。
門には早速蜜をすすりに来た男どもが集い始めていた。
○○○
「お迎えに参りました。」
女主が山吹の間に来て丁度四半刻後に、馬に引かせた車は到着した。
「いつもどうも」
女主がかしこまって礼をする。
葵が乗り込んだのを見届けると女主はそそくさと店の中に戻っていった。
「お待たせいたしました」
従者らしき男は、葵の前に座り深々と頭を下げる。
「いいえ、いつも時間きっかしよね、ありがとう」
「恐れ入ります」
車は人気の少ない道を通って、どんどん北へと向かう。
「こちらです。お足元にご注意下さい。」
車から降りると、先ほどの従者が手を引いてくれる。
葵は、首を上げると痛めてしまいそうな程大きな御殿を見渡し、溜息をつく。
門を抜けると、丁寧に手入れされた庭が続き、やっと建物に着いたかと思ったら、そこから長い長い廊下を抜け、ようやく部屋の前に辿り着く。
「お見えになられました」
従者が声を上げると、「入れ」と低い声が響く。
細い葵がようやく通れるほどの僅かに開けられた扉から中に入ると、偉そうに椅子に腰かける男が居る。
「ご無沙汰しております。」
葵は手を組み、頭を下げる。
「ああ。変わりはないか?」
「これといってはございません」
そう言って、わずかに口角を上げる。
「ほお、馬子にも衣装といった感じだな。化粧もなかなかに上手くなったな。板についてきた気がする。」
「お褒めに預かり光栄です。」
「別にそこまで褒めてはいないが」
葵は思わず顔をしかめてしまう。
「それでは私は扉の前に控えております。何かおればお申し付けくださいませ。」
先ほどの従者が扉を閉める。
部屋には、葵と男、そして護衛が二人付いているだけだ。
「早速本題に入る。まあ座ってくれ。」
「失礼します。」
そう言って椅子に腰かける。
「先ずは、先の酒蔵の件、ご苦労だった。」
「はい。原因は…」
「お前の知らせにあった通り、鉛中毒だ。医官もいるので、高官たちは一命を取り留めた者がほとんどだが、未だにどこから入り込んだのかが分からない。現在、もう一度詳しく酒蔵を調べ直させてはいるが…」
「発見は難しいのですね。」
「ああ、その通りだ。もう少し時間がかかる。お前にも協力を頼むことがあるかもしれない。」
「承知しました。」
葵は息をついて出された茶を飲む。茉莉茶だろうか。芳醇な花の香りが鼻を抜ける。
「それと、今話題の亡くなった文官のことは知っているか?」
「ええ、だいたいは。」
「どうにも怪しいところが多い。情報は多い方が良いからな。とにかく探りを入れて調べてみて欲しい。それに関しては逐一連絡をくれ。厄介な人物が関わっている可能性も視野に入れている。」
男は険しい顔つきで話す。
「承知いたしました。」
取り敢えず、詳しくは聞かないでおく。”厄介な人物”と言葉を濁しているということは、ある程度見当がついているか、もしくはその全く逆か。
今は触れない方が無難だろう。
「ああ、そういえば」
葵は茶を机の上にそっと置く。
「いくつか聞いておきたいことがございまして。」
「なんだ」
男は腕組みをして葵を真っ直ぐに見つめる。
「先ほどの酒蔵の件ですが、鉛中毒の可能性を既にご存じでしたのでしょう?医官たちもそれを知っていた。なのになぜ…」
「酒造りの中止の達示が出ないのか、か?」
「はい。おっしゃる通りです。」
高官を診る医官も相当な腕の持ち主だ。鉛中毒くらいすぐに見抜けただろう。酒が原因と分かっているのなら、さっさと製造中止の命令を出せばいいというのに。
男は後ろに控えていた護衛に目で合図をする。護衛は紙を男に手渡す。
「見てみろ」
男に言われ、葵は紙にざっと目を通す。と、同時に瞳孔が見開く。
「ここ五年で、監査が十を超えている…?」
「そうだ」
そう言うと男は溜息をつく。
「それなのに、今まで横領が見つからなかった?一体なぜ?」
「気になるだろう?」
男は含みのある笑いを浮かべる。
「ちなみに言っておくと、鉛中毒が原因で高官たちが倒れたという事実を知っているのは、一部の医官や関係者、そして私とお前くらいだな。」
「どういうことです?」
「医官や関係者たちに緘口令が出ている。」
「それと、酒蔵に関係が?」
「分からん。」
男は澄ました顔で変わらぬ笑みを浮かべる。
そもそも横領した金はどこに行ったのか。監査というのが建前だったとしたら、横領が見つからなくてもおかしくはない。だが一体何のために?そして今更何のために緘口令を敷くのか。
緘口令を敷くことが出来るのはかなりの立場の人間だ。ということは、つまり…
考え込んでいた顔を上げると、不敵な笑みを浮かべる男と目が合った。どうやら考えていることは同じらしい。
なんだか腹が立ってきたので、スッと目を逸らすと、男の顔が、ほんの少しだけ寂しそうな表情に変わった。
「すまないな。お前には辛い想いをさせて。」
「いえ。貴方様には貴方様のお立場がございます。気になることがあったとしても、自らの足を運ぶことはできませんから。お気になさらず。」
そう言って茶を飲み干す。さっきよりも苦みが増した気がする。
「用件はお済でしょうか?貴方様のところに若い女が出入りしていることが分かれば、色々と厄介でしょう。できる早く退散いたします。」
葵の気迫に押され、男は少しおののく。他に話すこともなさそうだったので、葵は立ち上がる。
「逆に早く帰りすぎると、妓楼の者たちに怪しまれるのではないか?」
葵は少し考えた後に座りなおす。こういう時は大体、愚痴を聞かされるか、面倒事を押し付けられるかのどちらかと、相場は決まっている。
「何でしょう?」
葵が如何にもめんどくさっという顔をして尋ねると、男は眉をひそめる。
「仮にも妓女なのだろう?客には愛想良くしようとは思わないのか。」
「常に心掛けてはおりますが、化けるのが得意な狐にも狐に戻らなければならないこともあります。」
「それが今だというのか」
葵は口を尖らせて視線を逸らす。
男はため息をつくと、後ろの背にもたれかかる。
「お疲れですか?」
「ああ、見ての通り、厄介ごとだらけだ。これからさらに忙しくなる。」
「なぜです?」
男は葵の方を見ると、さらに大きなため息をついた。
「簡単に言えば、私の立場が危ういところに来ているといったところか。今のうちに功績を残しておかなければ、この国は危なくなる。」
納得がいったような、いかないような、微妙な感じがするが、深入りしないのが得策だと踏んだ。
やけに踏み込むと、余計に面倒事が重なることになるかもしれない。
そこから二半刻ほど、世間話をしていると、段々眠気に誘われる。
「眠いのか?」
うとうとし始めた葵に男が問う。
葵は力なく笑って答える。
「久しぶりに気を抜けたもので。物騒なことが多いものですから。」
男はなんとも言えないような顔をする。
「泊っていくか?お前に会いたいと非子も言っていたし。」
正直言って今すぐにでも床につきたい、とは思う。だが翌朝帰れば、閨を共にしたのでは、と疑われかねない。それだけは避けなければ。
「非子には申し訳ないですが、今はまだ。」
葵はやっとの思いで立ち上がる。自分の帰る場所を捨ててまで、「葵」という地位を築き上げたのだ。
今壊すわけにはいくまい。
男もそれを知ってか知らずか、葵の言葉にすんなりと手を引いた。
ひょっとすれば、半分本気で半分冗談だったのかもしれない。
帰り際、男にあっと呼び止められる。
「最近、我々の周りを嗅ぎまわっている奴がいると聞く。くれぐれも気をつけろ。」
葵は礼をして、御殿を後にする。
(厄介なことが起きそうだ。)
葵は深いため息をつくと、車に乗り込んだ。