4 久方振りの御客
日の沈んだ頃、灯りを灯し始めた街に、今宵も男共は集う。
「葵小姐、いつもの旦那様がいらっしゃいました」
「あいよ」
不思議と声が弾む。
らしくもなく、今日は簪を少し派手にしようかなんて考える。考える前に手が動いている。
ちゃんと顔を合わせるのは何時ぶりだろうか。
いつもよりも濃く紅を塗ると、いつもよりほんの少し軽い足取りで部屋を後にした。
〇●〇
「ご無沙汰しております。」
葵が部屋に入って腰を落ち着かせるなり、その男は深々と頭を下げる。
部屋には葵と男以外いない。それだけ信頼が厚いということだ。
「そんなに頭を下げないで欲しいわ。久しぶりの爺やなのに、顔さえ拝めないなんて。」
そう言って、少し意地悪く微笑んで見せる。
「いやはや、何かと忙しかったものでして。遅くなりました。それにしても、また一段とお美しくなられたようで。困りましたな。こりゃ、虫どもが寄ってくる…」
「相変わらず口が上手いのね。ウフフ。」
葵が団扇で口元を隠して笑うと、爺やは少し寂しげな笑いを浮かべる。
「お化粧というのは恐ろしいものですね。私はお化粧などせず、走り回っていた可愛らしい貴女様の御顔をまたいつか拝みたいものです。」
葵はほんの少し苦し気な笑みを浮かべる。
「すごいでしょ、お化粧って。丹華小姐にも言われたもの。化粧をすれば別人、女になるのね、って。」
「そりゃあ、貴女様はまだほんの…。」
「シッ、言っちゃだめよ。ここでの私は、十九の妓女なんだから。張様。」
暫くの静寂の後、そうだね、葵。と言われる。
「それで今日はどんなお話を聞かせて下さるの?」
客に接する時特有の、大人びた口調で話す。
「うん、あのねえ」
張はくいっと酒を煽ると、ふうっと息をつきながら、静かに盃を置く。
「この間、金貸しの旦那が亡くなったのは知っているだろう?この店にもよく来ていた。」
「ああ、知ってるよ」
「その旦那がね、金を横領していたことが発覚して、お家ごと取り壊しになるそうだ。残された奥様や下女たちは知らなかったということで、死刑や肉刑になることは避けられたようだけど、あれじゃあもう都には帰って来られないだろうねえ」
結局、報告書には詳細は記さなかった。きっと、奥様が犯人だと自ら名乗り出るならば、報告書を書くまでもないだろうと判断したからだった。
取り敢えず、旦那様が行ってきたことで、様々な方面から恨みを買っている、とだけ知らしておいたのだが、意外なところで裏目に出たようだ。
「下女たちは実家に?」
「そうだねえ、実家といっても、殆どが農家。ここのところ作物の育ちは悪いし、疫病が流行っているのか、皆死んでいくというし…あれじゃあ生活していくのは苦しいだろうねえ」
「そうか」
女主も同じようなことを言っていた。なんとか作物が実ることを祈るしかないだろう。
「奥様は?」
「旦那様を殺したのは自分だ、と言って名乗り出たらしいが、下女たちが必死に反論してね。結局お役人たちも、旦那が亡くなって気が滅入っているのだろうということで処理されて、遠く離れた地に飛ばされたそうだ。」
いわゆる流刑だ。ただ遠い地に流されるわけではない。言わば、国の奴隷のようなものだ。国営事業の中の重労働が課せられる。それでも、それで済んだだけ良かったのかもしれない。
いや、どうだろうか。誰も知らない土地でたった一人で孤独にひたすら過酷な労働に耐えるか、一瞬で死に処されるか。
(どちらが良いとも言えないな)
葵は知っている。誰一人として知らない土地に、着の身着のまま飛び込む恐ろしさを。そこで自らを奮い立たせて全てのことを培うことがどれほど大変なことかを。
「ああそうそう。金の横領が見つかったのは、金貸しの旦那だけじゃなくてね。」
知らず知らずのうちに険しい表情をして、黙りこくってしまっていた。客の目の前で情けない。
「衣服屋に、皇家御用達の酒蔵。とんでもないことになっていてねえ。御用達の店は酒蔵だけじゃなかったようなんだ。あっ、これは秘密だよ」
「どうして?」
「御用達の店が簡単に潰れてしまったら皇家の人間が困るとかなんとかで、一部を除いて今回は目をつぶるんだそうだ。罰を受けない店は、横領していたことさえ世間には知られていない。私だから手に入れられた情報だからね。」
葵はそれを聞いてため息をつく。国が横領を黙認するとは、なんとも呆れたものだ。
「この国も落ちぶれていくのかしらん。」
「どうだろうねえ。ちょっと耳をすましてごらん。」
張に言われてそっと耳を傍立ててみる。すると、怒鳴っているのか、男の叫ぶ声が聞こえてくる。
「ふっざけんなってんだ。ろくに綿花がとれねえから、金が入ってこねえんだよ!それで公金を使って何が悪い!俺たちに死ねってのか、あのお役人はよ!」
酒に酔っているのだろうか。啖呵を切って叫びまくっている。
「おいお前、何がそんなに面白いんだよ、ニタニタ笑いやがってよ!おいお前、分からせてやるよ!」
その直後、女がキャーっと言う声が聞こえる。なにやってんだい、旦那!と怒鳴る女主の声が聞こえてくる。
(禿に手を出そうとしたな)
張が肩をすくめている。
「衣服屋の旦那だね。ここにつぎ込む金を上手くやりくりすれば、全然食べていくくらいできただろうにねえ。明日、肉刑を受けるそうだよ。今夜が最後の上手い酒にするはずだったのだとしたら、馬鹿なことをしたねえ」
「横領が肉刑で済むのかい?」
「そこは深入りしない方が良いんじゃないかな、今は」
そう言って張は、煙管に火をつけ、ふうっと息を吐いた。煙が弧を描いて上がっていく。
「葵」
ふと部屋の戸の向こう側から、艶めかしい声が響いた。
「いるよ、入って小姐。」
すると、すっと戸が開いて、色艶溢れる白い肩と鎖骨をこれでもかというほど漆黒の着物から見せ、見ているものを卒倒させるほどの色気を纏って入ってくる。
「蘭世小姐。」
「張様がいらしてくださったと聞いてね。本当はお相手したかったけど、先約が入っていたから。すみません。」
そう言って、蘭世はすっと頭を下げる。その仕草さえ、艶めかしいのはなぜだろう。
「いやいや。わざわざ済まないねえ。葵と話をしているのも楽しいし、私はまたの時で良いよ。そのお客のところに行っといで。」
「それが、たった今旦那様が店を追い出されましたの。あれじゃあ二度と蝶天閣の門はくぐれませんわ。」
衣服屋の旦那のことだろうと、直ぐに察しが付く。
しかし、蘭世は微笑んでいる。心なしか蘭世の頬がほんのり色づいている。
「そうか、なら私の相手をしてくれるかい?」
「もちろんです。」
蘭世が盃に酒を注ぐ。張の顔も少しほころんでいる。微笑ましい光景だ。
「では、私は失礼いたします。」
「葵も居ていいよ。」
(居ろと言われてもなあ)
こんなにも仲睦まじい雰囲気の中に入れる訳がない。
「いいえ、お二人の間で右往左往する未来が見えておりますので、失礼しますわ」
いたずらっぽく微笑むと、張様と蘭世は顔を見合わせて小さくうつむく。
まるで初恋の画を見ているようだ。
部屋の外に出ると、早速笑い合う声が聞こえてくる。
蘭世は丹華、葵と並んで、蝶天閣の最高級妓女と称されている。
見た目とは裏腹に、年はもう三十路を過ぎているが、彼女の人気は衰えるところを知らない。
昔から蘭世を知る客は皆、蘭世の美しさと、その話術、しなやかな動き、全てが彼女の魅力だという。
既に床の客も取っているが、そちらの方も随分盛んなご様子で、旦那様は皆、翌朝満足気な様子で妓楼を後にする。
張様と言えば、この妓楼に数十年も通い続ける、常連様様だ。
温厚な性格だが、羽振りも良く、妓女のほとんどから好かれているが、床をとったのは、かつてたった一度だけらしい。
まあ、それも近いうちに更新されるやもしれない。
なんせ、蘭世と張様は二人だけの世界があるのだから。
近いうちに身請けなんて話も出るやもしれない。
少し心を躍らせた葵は行きよりも軽い足取りで部屋へと戻ったのだった。