蕩けて
儀式は終わった。
屋敷を出た僕たちは先生の号令によって解散を告げられる。
人によっては授業の方が楽だとか、色々言っている人がいたけれど、僕にとっては夢みたいな時間だった。
けれど、夢じゃない。僕が見た光景の半分は現実で、もう半分は幻想に片足を突っ込んでいる。
鳴は後片付けとかなんやらで連れていかれた。秋は主役なので当然居なくて、久原姉妹はこれから増える客のために「とまりぎ」へ走って帰っていった。
よって僕は一人で帰路についている。
一人で帰るのは転校して以来久しぶりで、こうやって自分の考えに没頭する時間が少なくなっていたこと思い出した。
『つまんないかおー』
「わっ」
ぶらり。
宙が垂れさがるみたいに少女が上から現れる。紺を基調とする見慣れた着物姿。けれど、彼女の表情は僕が良く知る少女と違い、やけに口角を上げた悪戯な笑みを浮かべている。
『にししぃ、驚いたぁ?』
「なんのようですか、しゅう様」
骨伝導イヤホンみたいに脳へ声が響いてくる。
おかげさまでふにゃふにゃなしゅう様の言葉もしっかり理解することが出来た。
『えー? そりゃあもちろん、感想を聞きに来たんだよぉ』
当然でしょ? と腰に手を当てて、ふよふよと僕の真横を水平移動している。
──もしもし、私しゅうさま。今貴方の隣を飛んでいるの。
うん。あまりにも違和感がない。この神様は神というより、座敷童とかの妖怪みたいなもっと身近な存在で、現実と幻想を反復横跳びする揺らぎに僕は惹かれた。
「すごかった。──じゃ、駄目そうですね」
『当たり前でしょー。ここの人達はわたしのおかげで生きていけるんだから』
「豊穣儀、でしたっけ」
『たっくさん祈って貰ったよ! おかげで──ほらっ』
彼女の声に応え、背中から蝶の羽が生える。
服装が全体的に暗めなのもあって、眩いぐらいの白さはより輝いて見えた。
「……」
『驚いて声も出ない? ──ちょっとー何か返事してよぉ』
「ちょ、ちょっとしゅう様!?」
にたにた笑ったまま、しゅうさまが僕の背中に飛びついてくる。
着物越しでも分かる膨らみが押し付けられる。
祈りの力が高まると実体化出来るらしくて、儀式を終えた後のしゅう様は浮いていることを除けば人間と大差なかった。姿が見えないのは変わりないけれど。
彼女と同じだと分かっているのに、どうしてか意識してしまう感触が僕の体を跳ねあがらせる。しかし、首にがっしり巻き付けられた両腕が僕をホールドしていた。
『あっれぇ? 秋の胸は当たっても平然としてるのに』
「普段触られない分、びっくりするんですってば」
『えー。いいじゃん。わたしも触りたいんだよぉ』
「……神様なのに?」
仮にも神様だ。そういう人間らしい欲を持ち合わせているとは思えなかった。
無意識で完全性を期待していた。
『だってさ』
しゅう様が僕に体重を預ける。
首にかかる力が強くなって、しゅう様を振りほどくなんて出来ない僕は大人しくおんぶの姿勢を作り、しゅう様のふとももを支えた。指が沈み込みそうなクッションは心臓に悪かった。
『わたしは人間が大好きでさぁ。人間のために生まれたみたいなところ、あるんだー』
「それは……」
正直、都合がいい存在だな、とは思っていた。
こちらがいくら下手に回ろうとも、実豊町ほど閉じた世界は神様への依存度が高いだろう。自給率も高いと聞いた。今の時代外からの物資に頼らず成り立っているところなんてないと言い切れるぐらいだ。
この町の人が捧げる祈りも、どちらかと言えば豊野家に対するものが大きい。
だってそうでなければ、儀式後数日しか実体化出来ない方が可笑しいと思う。
人々の脳裏にあの蝶が強く焼き付いている間だけ、彼女はしめ縄の外に出られるのだろう。
『別にぃ? そういうのはどーでもいいの』
「いいんですか」
『いいんですー。そっちよりもー、えいっ』
ぎゅ、と抱き着く力が強くなった。僕の後頭部にあったしゅう様の顔が頬に近づく。
桃っぽい香りがふわっと舞った。もし匂いが視覚化されたなら、視界一杯の蒲公英の種が待っていたに違いない。
首元と顔が彼女の温度と近づいてあったかくなる。決して、僕の顔が赤いとは──思わない。こうやって触れられるだけで身に余る幸福だった。
『えっへへー。あったかいねぇ』
『わたしねー、こうやって人と触れられないの。でもねぇ、わたしが見送って来た巫女たちみーんな、好きな人と触れ合って、重なりあってた。』
「…………見てたんですか」
『だって、気になるしぃ? ていうか、わたし明言してないよ?』
「……僕も明言してませんけど」
せめて営みだけは見過ごしてあげて欲しかった。
先祖様に伝わったら泣くぞみんな。
『わたしも、あーいうの、してみたいなぁって』
吐息が肌にかかる。ぞわ、と鳥肌が立つのがよく分かるくらい、僕の体は鋭敏になっていた。女の子特有の体はあんまりにもオトコノコには毒で、急速に僕の血流を駆け巡り、体を火照あがらせる。
「僕は、やめておいた方がいいですよ」
『んー? 誰も氷汰とはいってないけどなぁ』
「…………」
素晴らしい早とちりでした。穴があったら入りたいです。
『あははぁ、ごめんってぇ』
しゅう様の蕩けた声が、熱い吐息が、僕の耳元をくすぐる。
彼女の言葉は脳内に叩きつけられるのに、彼女の押し付けられた体が鼓動している。
現実と幻想の狭間に彼女は立ち続けていた。
「……別に、怒ってはないですって。変に期待させられて落胆してもないです」
『拗ねないでよぉ』
うりうりとからかってくるしゅう様の顔が僕の肩に押し付けられる。
犬とか猫が甘えてくるみたいなその仕草はとてもかわいくて、今の僕には目にも体にも毒だった。彼女の一挙一動に肌がぞわりと騒ぎ立て、心臓が力加減を間違えたみたいに、ポンプする。
「だから怒ってないですって」
『ほんとー?』
「ほんとです」
『ほんとにほんとー?』
「ほんとにほんとです」
めんどくさかわいい。秋からは想像も出来ない甘えた声が脳を直接揺らしてくる。
『そっかぁ。──でもさ』
「……」
ちょっと身構える。見た目は同年代でも一応年食った神様なのだ。
人生経験は大敗北である。油断も隙もならない。
『女の子が気もない相手に、こんなことするとおもう?』
「────」
そういうところですよ。全然絶命しちゃうからやめてもらっていいですか。
……こんな道のど真ん中でAEDのお世話になりたくないんです。
狂ったみたいにポンプを繰り返す心臓が今度はぴたりと止まってしまうものだから、大変心臓にご迷惑をおかけしている。
『あは~。またかたまったぁ』
「そういうの、みだりに言っちゃだめですって」
『言わないし、言えないよ? ──君以外の男の子に』
忘れていた。豊野の当主は毎度巫女で、女系家族だ。
それが意味することに、僕が気付けないはずもなかった。
僕が感じた以上に、彼女は孤独を味わっている。
僕が経験した以上に、彼女は孤独に身を置いている。
僕が思う以上に、彼女は僕に共感している。
「……そうでしたね。すみません」
『あやまらなくっていいよ』
ししし、としゅう様が笑う。……本当に──
「勿体ないなぁ」
『え、何がー?』
うっかりしていた。こんなに、自分を受け入れてくれた人が久しぶりで、想像以上に僕は気が緩んでしまっていた。
「あ、いや、独り言がつい」
『ち・が・うっ。わたしは、なにがって聞いてるのー』
「黙秘権は……?」
『あるわけないでしょー』
黙秘権知ってるんだ。
「……ほら、もし──しゅう様が皆に見えたら引く手数多だなぁ、と」
『なぁんだ。そんなこと?』
「そんなことって何ですか」
『だって、当たり前でしょー? わたし、かわいいしっ!』
「自分で言うんですか」
『間違ってないでしょー? あきにあつまる目線。いっぱいあるもん』
「ははっ。間違いないです」
あんまりにも自身満々で言うから、体の力が抜けてしまった。
──それが、僕の油断だった。
「……でもね、さわれるのは──君だけなの」
鼓膜が震え、脳は揺れなかった。
湿気すべてを吸い込んだみたいなしっとりとした声が僕の耳を犯す。
息が止まった。相変わらず、心臓は目まぐるしく停止と急加速を繰り返していた。
可哀そうだと気遣う余裕など、ありはしなかった。
「でしょう、ね」
ただ、見えるだけだ。ただ、触れられるだけだ。
何か凄いことが出来る超能力でもない。
『そんな君が、ほしいの』
ふかく、ふかく。自分を求めてくる声はあまりにも甘美だった。
生チョコをいくつも喉に流し込んだみたいな甘ったるい声が、猛毒となって僕の体を巡りに巡った。
「…………」
『受け入れてくれる?』
いつの間にかしゅう様は僕の体を離れ、正面へと回り込んでいた。
濡れた目が心の奥まで覗き込むみたいに見つめ続けてくる。
そっと視線を逃がせば、今度はそっと突き出された桜色の唇に吸い込まれる。
もし、それに重なってしまえばどうなってしまうのか。
硬いだろうか、柔らかいだろうか。
苦いだろうか、甘いだろうか。
現実逃避の疑問を繰り返している間に、それはゆっくりと近づいてきて──
「氷汰! しゅう様!」
「……ッ!?」
『あちゃあー』
以前ぶちまけられた冷や水を思い出す声に、僕の意識はたたき起こされた。
『またの機会、だね』
そう言い残して、しゅう様は霧みたいに溶けて消える。
「あ──」
掴めるはずもないのに、僕は霞へ手を伸ばし当然のごとく空気を掴んだ。
「……氷汰?」
「……どうしたの、秋」
「いえ、しゅう様へお礼の祈りを捧げようとしていたのですが」
「あー。ごめん……ちょっと、借りてた」
なんて言うべきか思いつかなくて、仮にも恋人を前に浮気まがいのことをしていたとも言えなくて。つい口ごもってしまった。
「いえ、こちらからお願いしている立場なので、それはいいのですが……」
「……どうかした?」
「──いえ、なんでもありません、また明日会いましょう」
「うん、また明日」
ふるふると首を横に振り、秋は踵を返した。どこか足早に見えたのは気のせいだろうか。
多分、僕のふやけた頭が見せた幻覚だろう。
機会を逃したことに落胆すべきか、踏み外さなかったことに安堵すべきか。
僕には分からなかった。




