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惚れたのは

 とぷん、とぷん。ちゃぷちゃぷ。

 耳横で布か何かを浸す音が聞こえる。

 僕の意識は水底に沈んで、凝り固まった血流みたいに滞っている。

 おばあさんが川で洗濯を、なんて状況でもないだろう。あと既視感のある情景だ。

 幼い頃、病弱だったのを思い出す。一時入院にまで行ったときは、僕の体調も安定しなかったのか、鎌を持ったローブ姿の誰かが立っていたのも見えた。


 異常なモノが見えると自覚できてからは、あれが死神なんて呼ばれるものなのだろうかと思った。

 だから、今隣で水音を響かせる誰かが、僕にはそういうモノに見えた。

 だってそうだろう。昨日見たビデオみたいな状況は中々起こり得なくて、だからこそ鳴が楽しそうにしていたんだ。

 現実にないモノが見えるからこそ、その区切りはしっかりしているつもりだ。


「えっと、こうでいい? あきお姉ちゃん」

「はい、合ってますよ。それを額に乗せてあげてください」

「うんっ」


 ひた、と冷たいものがおでこに乗せられた。冷たい感触が意識を水底から水面へと引き上げる。遠くで聞こえた声は聞き取りにくかったが、意識が水揚げされて聴力が帰って来る。


「えっと、つぎはどうしたらいいかな?」

「……おかゆなんてどうでしょう。まだ起きるかは分かりませんが、体の弱っている人にはぴったりのご飯です」

「しおり、おかゆなら作れるよ! おかーさんがおしえてくれたっ! お米洗ってくるっ!」

「あ、ちょっと……」


 どうやら横にいるのは空想ではないらしい。

 聞き覚えのあるというか、聞き覚えしかない声だった。どうして貴方がここにいるんですか、姫様や。


「……秋、さん?」

「──ようやくお目覚めですね。さん付けとは随分他人行儀ですが……おはようございます、体調はいかがですか?」


 意識こそ起きて応答は出来るが、ベッドに縛り付けてくる重い体は健在だ。

 ふわふわと定まらない意識をなんとか締め上げて、思考を口にする。


「ちょっと体がだるいくらいで……なんでここに?」

「恋人の看病に来るのがそんなに不思議なことですか?」


 その気になったら恋人にすら薙刀を振るう人に、心配という感情があったなんて思わなかったんです。ほんとに。

 でも、ベッドの横で正座をする彼女は様になりすぎていて、なんだか悔しい。


「昨日のこと、どれくらい覚えてますか?」

「きのう……。あ、九原の所のお母さん?」

「……ええ、その節は大変申し訳ありません」

「──」


 両手をフローリングにつけて深々と頭を下げる。理由も分からないし、何より一呼吸の間もない謝罪に僕は言葉を奪われた。

 ふわふわ。もくもく。不定形な雲が頭で浮かぶ。

 固形にして吐き出そうにも、口は動かなかった。

 だから手を伸ばして、ほとんど押し飛ばす形で肩を持ち上げ、顔を上げさせる。


「……なんで。秋が謝るの」


 ようやく形になった言葉。らしくない秋に腹が立ったからか、棘のある言葉が僕の口から飛び出ていった。


「私が──私が悪いのです」

「……だからなんで」


 らしくない。殊勝な態度なんて、彼女らしくない。

 一見、常に一歩下がる大和撫子を思い描かせながら、その実自分を通しきるのが豊野秋という人物だろうに。

 邪魔者を切り捨てる銀閃の意思も見えなかった。


「小枝達と話したのです。その、子供についてを」

「……で?」


 胸中には落胆があった。

 瑞々しい果実を口にしたら熟しすぎていた時みたいな裏切りだ。

 つまり、期待していた。──期待して、落胆した。

 驚きが追い付いてくる。期待を抱く程度に、秋を重く見ていたらしい。


「子供を作るには好きあっていた方がいいと、聞きました」

「うん」


 ただの相槌にも感情を込めてしまう。抑揚は薄い。けれど、僕の声はつららみたいにささくれ立っていた。


「けれど、氷汰は私のことを愛してはいないでしょう。友達としての好きはあれど、それ以上はない」

「……そうだね」


 自分で言いながら酷いものだと苦笑してしまった。少なくとも、人のことを言う資格はない。


「だから私は、氷汰が私を好きになってもらう方法を探しました」


 もう相槌は返さない。怒っていた九原姉妹の母。そして、豊野と九原が親同士で仲が良いこと。結び付ければ結論は浮上してくる。


「それを、九原のお母様に聞かれたもので──」

「僕の間が悪かった感じか。確かに、運はないほうだから妥当でしょ」

「……安易に口にした私が悪いのです」

「別にいいよ。君だって僕のことを好きじゃないし」


 ぴくり、と秋の肩が跳ねた。何かが癪だったのか目が全く笑っていない笑みを張り付けて、僕の顎へと手を伸ばしてくる。


「あら、こうして看病しているのに酷いことを言うんですね」

「──なっ!?」


 彼女の細指が僕の顎をそっと持ち上げ、目線をむりやり合わせてくる。黒瑪瑙ほ瞳が映す僕は、実に呆けた顔をしていて情けない。

 いわゆる顎クイだった。

 君は反省していたんじゃなかったんですか。どうして攻め気に戻ってしまうんですか。

 熱に浮かされているせいか動転する自分の声を隠せない。

 なまじ美形な秋の顔は息を呑むくらい綺麗で、不覚にも血流が強く巡るのを感じた。主導権を取られまいと僕は話題の転換を試みる。


「……そういえば、なんでここに居るのさ」


 栞にとって豊野秋は目の敵にされてしかるべき存在。いまごろむきーと敵意を晒し、威嚇してもおかしくないのに、仲良く話している絵面は衝撃的だった。

 何より僕の心臓が余計に早鐘を打っている。バレてしまうのは避けたかった。


「なんでも何も、恋人の看病に来ることの何が不思議ですか?」

「……仮にも豊野の人間なら知ってるだろっ。この家庭のことも……!」

「問題ありません。そのことについては伏せています。それと、今日はお父さんをも早くお帰りになるとも伝えていますから」


 貴方、その父の雇用主でしょうに。


「どういう立場で言ったのそれ」

「豊野家の使用人と。着物は着ていますから関わりがあることはすぐにばれてしまいます。ですので、これが最良です」

「あ、そ」


 着物じゃなくて別の服装で来ればよかったのでは、なんて正論は一蹴されそうだ。

 彼女なりにプライドもある。自分の服装を変えてまでの配慮は出来なかったらしい。

 実に生きるのが下手そうだ。でも、暴論を正論だと言い張る態度こそ、豊野秋だ。

 綺麗な花には棘がある、という言葉はまさしく彼女にふさわしい。


「……結果的に秋も関わってたのかもしれないけどさ、ありがとう。来てくれて」

「──実を言うとですね。楓が看病に押し掛けに来た恋人は男にとってクルらしいと……」

「僕の感動を返してくれ」


 やはり秋は秋だった。多分、会議とやらの際に出た結論がこれだったに違いない。

 文殊の知恵は偽物らしい。

 恋愛は駆け引きだと言われているみたいで、現実への落胆を嘆いてしまう。

 何がつまらないって、この駆け引きは出来レースで、僕の下手な行動は、居候元の人間に多大な迷惑をかける。

 秋自身は意識していないのかもしれないけど、豊野の人間と付き合うってのはそういうこと。無意識の脅しがこちらを覗き込んでいる。

 接待を命じられたゴルフともいえようか。

 けれど、けれど。


「とにかく、貴方は寝ていてください。仮にも病人です。そして、私も看病をしに来ただけに変わりはありません。打算はあれど、手を抜くつもりもありません」

「打算があることは隠さないの」

「女に好意を持たれるのを嫌がる男はいないと」

「吹き込まれすぎだよ」

「私が好きでやっているのだから、貴方は大人しくこれを享受すべきです。美少女の看病ですよ?」


 ……相変わらず自身に満ち溢れていた。

 僕が一瞬でも惹かれた豊野秋は、常に芯が通っている。

 常に豊野秋という人物像を胸に秘めている。

 体も心も自身の物として駆使している。

 惰性にも欲望にも引っ張られることは……欲望は微妙かもしれないな。


「……そうするよ、ありがと」


 正直、熱は引いていない。自分の体が水面を揺蕩う感覚も抜けきらず、布団の中に居ると自分の体の境界線も分からない。まるで、体が溶けてベッドと混ざり合ったみたいで、気持ち悪かった。

 僕が素直に頷いて満足した秋がテキパキと動き始める。栞一人では難しい服の脱ぎ着だとか、汗を拭いてくれるだとか、色々だ。情操教育の知識はかけらもない癖に、こちらの上裸を見ても一切の動揺を見せないのは不思議だった。


 ……むしろ、直視していたような気もする。

 こうも甲斐甲斐しく世話をされると、彼女を無意識に毛嫌いしている何かがふやけて抜け落ちそうだ。

 ちくちくと頭の中で刺さっているそれは、自分への戒めも兼ねていた。


 ──僕が好きなのはしゅう様であって、その姿形だけを持った豊野秋ではない。


 僕が告白に頷いたのは豊野秋の美貌に惚れ込んだのではなく、その提案を後押しした州様に惹かれたからだ。──そう、思い込んでいた。

 ……だけど、今の僕にはそれが分からない。

 多分、今秋に子供を作ろうと提案されたなら、綿菓子より軽い首を縦に振っていた。


 ……ああ、情けない。ああ、つまらない。


 金重氷汰という自分はこんなにも揺らぎがある。

 豊野秋が一本の大樹だとするのなら、金重氷汰は風に揺さぶられた散りかけの葉に過ぎない。

 周囲に合わせて染め変えられ、周囲に合わせて散っていく。

 豊野秋が心と体を自分のものとしているなら、金重氷汰は心を持ちえど、体は親の意のままに動かされている。


 タンスの下で放置したままの疑問に、ライトを照らしてしまった。

 知らなければ、気にしなかった。

 面倒くさがって忘れていればいいのに、ベッドで横になる頭がつい思い出してしまった。



 ──実豊町の姫か、実豊町の神。僕が惚れたのは一体どちらなのか。


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