冷や水
「こうやってオレらだけで帰るのも久しぶりじゃね?」
「秋と帰るようになったの、鳴と仲良くなってすぐだったからね」
しゅう様に会った翌日。
寒気で頭が冴えた午前の授業と重箱持参の昼休みも乗り越え、今日も無事に放課後へたどり着いた。
ここ一ヶ月強の間は秋と二人で帰っていたが、まさかの秋から断りを入れられ肩透かしを食らってしまった。昼休みとの温度差で風邪を引きそうだ。
そういうわけで、転校してすぐつるんでいた鳴と帰ることに。
きさくな彼の交友関係は割と広いのだが、彼は彼で秋と小枝の女性陣に巻き込まれるので、遊び相手こそ多かれ下校を共にする仲は少ない。そこへ秋と話せる僕が入ったことで下校仲間一号が出来たわけである。
「んなこたどーでもいいんだよ。でー? ついに姫様に愛想尽かされたってか?」
石ころを蹴り歩く小学生みたいに、鳴が積もった落ち葉を蹴散らし、にやにやとからかうように聞いてくる。
そんなことは、昨日と一ミリも変わらない昼休みが教えてくれていた。
今日の重箱はお肉がメインだったとだけ言っておく。
「……さぁ? なんか『とまりぎ』に用があるって。あっちも一応お嬢様だし、店関係でつもるはなしでもあるんじゃ? そこのところどうなんですか幼馴染」
「幼馴染だからってなんでも知ってるわけじゃねーっての」
「昔は小枝の通訳係って秋から聞いたけど」
「……まー腐れ縁だからな」
並木道に落ち葉が降り積もっているものの、まだ木々には紅葉が残っている。
取れそうで取れないさかむけ並のしぶとさだ。
「……今更離れらんねーし」
風になびいて落ちそうな紅葉を見上げ、鳴が呟く。乾いた風も湿気てしまいそうなくらい水気を含んだ声だった。
小さい頃の話し相手なんて祖父ぐらいしかいなかった僕に、付き合いの長い友人は羨ましいばかりだけど、案外青く見えただけの芝生かもしれない。
会話の流れを悪くしてしまったことを悔いつつ、話題を変える。
「せっかくだから鳴の家行っても?」
「おう! いいぜ。へっへっへ、お前が最後に来てから新しいの仕入れたんだよ」
「……また?」
「男ならまっしぐらよ!」
「欲望に忠実なだけじゃないかなぁ」
友人の品揃えが増えたことを素直には喜べなかった。
なんの品揃えか。などという話は、ここでするには少々目線が気になる類のため、ここでは控えたい。……彼の名誉のためにも。
実豊町は所詮田舎である。それが意味するのは生活に困る云々はさておき、学校や商店街付近は賑わうものの、そこから離れれば田畑ばかりが広がる殺風景な場所ということ。
都市から離れた場所でのスローライフ、などと言えば聞こえはいいけど、面倒なことの方が多いのだ。
例えば──
「自転車で来たらよかった」
「それ、いつも言ってるな」
だらだらと話しながら足を動かすこと三十分強。普段は途中の分かれ道で「また明日」するのが定例だったが、帰りにまた三十分強、しかも一人で足を動かさねばならない。
自転車を使えば楽なのは分かっているけど、自転車勢の気持ちを理解しない道が多すぎる。水路の幅並の道はもはや「落ちろ」と幻聴が聞こえるほど。
「……どうせ帰りに『とまりぎ』寄るからいいけどさ」
「お? なんか用でもあるのか?」
「一応送って帰るべきだろ」
「……ちゃんと恋人やってんのな。一応、偉いさんだし送れって呼び出される方が自然だわ」
「失礼な」
軽口一つ、ばしんと鳴の背中を叩いてやったが、当たり前だろとは言い返せなかった。
へへっと笑い飛ばす鳴が、着崩した制服のポケットから鍵を引き抜き、扉を開けた。
「いま誰もいねーから先部屋行っててくれ、のみもんだけ取って来るわ」
「ありがとう」
スニーカーのひもを解かずに脱ぎ捨て、玄関に転がしていく。彼の靴以外は靴箱にしまわれているらしく、広々とした玄関にくたびれたスニーカーが寂しく残された。
「……」
見なかったことにしよう。
築数十年で傷んだ木の階段をめしめし押しやり、二階すぐ正面の鳴の部屋へ。
ノックすること! と書かれたルーズリーフをテープでドアに張り付けている。
そこは可愛らしく看板でもかけるなりして欲しかったが、百均すらないこの町じゃ、安くそろえるのも苦労する。男子高校生にこれを気にする几帳面さはなかった。
「一月ぶりくらいかな」
部屋の中は隅にベッドが置かれ、中央に敷かれた黒のラグの上に、角ばった白のローテーブルが置かれている。そこまでは特筆すべきことは少ない。
しかしローテーブルを跨げば、時代も跨いだのかと錯覚するブラウン管テレビが台の上に鎮座していた。
スマホが標準装備になったこの時代にとても似合わないが、彼曰く元々リビングにあったものからのおさがりだとか。
一人部屋にテレビがあるのも贅沢といえば贅沢だ。なので、リビングからのおさがりがないストーブはこの部屋になく、冬になるにつれてこの部屋を使う機会も減るらしい。
学生なら勉強するだろうという疑問は 教材一つない綺麗すぎる勉強机が証明している。
……綺麗が一蹴まわって埃が積もってるのはどうなんですかね。
その机にも一際存在感を──それしかないせいで主張が激しい、赤く分厚い本がブックスタンドに挟まっている。誰もが知る有名大学の赤本だ。
使われた形跡もなく、買って満足したのか新品同然だった。
「これ、前にあったっけな」
誰かのおさがりにしてはやけに綺麗なのが不思議だ。彼の学力は教材どころか筆記用具すらない机を見れば、粗方察せられるぐらい微妙なのに。
この赤本の大学に行ける確率など、微粒子よりもないだろう。
「おーっす、どっちが欲しい? 今なら水と水があるぜ!」
「右の水でよろしく。ありがと」
中で波打たせる水を零さないように二つのグラスをローテーブルに置く。
置いた拍子にとぶんと雫が跳ねる音がなんだか心地よかった。
「最初は俺の好きなので良いかー?」
「ここには鳴の好きなやつしかないよ」
「へっへ、それじゃ遠慮なくー」
少し気持ち悪い笑みを浮かべながらテレビを乗せた台の鍵付き扉を開け、ディスクの入った箱を一つ取り出し、再生機に中のディスクを入れる。
うぃーんと再生機が駆動し、熱気を吐き出す。肌寒い部屋に生ぬるい空気が流れだした。
「シチュエーションとしては風邪を引いた兄を看病するってやつだ。いいよな! 至高だよな!」
「はぁ」
入力切替に応えるテレビさんにリモコンを差し向け、鳴が語る。
友人として楽しそうに語っているのを見るのは非常に面白いが、ここへ来る前は想像もつかなかった光景、もといシチュエーションである。
──映像が流れ始める。
主観視点で始まった作品。視界の端には羽毛布団、それ以外は天井で埋め尽くされていた。どうやらベッドで寝ているっぽい。
とぷん、とぷん。ちゃぷちゃぷ。と水音が響いていた。
カメラが横を向く、制服姿の女子高生が洗面器にためた水に浸したタオルを絞っていた。
風邪、ベッド、濡らしたベッド、そして彼の性癖。
『あ、お兄ちゃん起きた? 体調は大丈夫?』
そういうことかと一人納得した。事前に説明を受けていても頭の理解が追い付いていなかったのだ。兄視点のまま妹に甲斐甲斐しく世話される映像を垂れ流される。
「あーーーー……いい…………」
伸ばされた細い腕とさする音。疑似的に撫でられている状況に鳴が恍惚な表情でぼーっとしている。非常に気持ち悪い。だが、見慣れてしまえば一周まわって面白くすらある。
実際の兄でもないのに楓に鳴にぃと呼ばせている理由。
分かってしまった時は流石にげんなりしたものだが、外では一切出さないのだから彼なりのプライド的なものはあるらしい。それに、男ならこの状況自体確かに思うところは多々ある。
実際に看病されるなら、妹よりかは母の方があり得そうな気もするが、非現実的だからこそあの興奮なのだろう。温泉に浸かっているような声から、くぐもった奇妙な笑い声になって来るとさすがに引いてしまうのだけれど……今更だ。
一歩間違えれば──なんなら片足は既に犯罪者側の沼に突っ込んだ笑みを浮かべる鳴と映像を見比べること数十分。一区切りついたところで落ち着いた鳴が一時停止ボタンを押した。
「ふへへ、やっぱ妹っていいよなぁ」
「ほんと欲望に忠実なことで」
「後半はお前だって釘付けだった癖にぃ? やっぱり下着か? したぎかー?」
「うっぜ」
もう少し見ておけとテレビの方に鳴の顔を押しやる。正直、途中から若干趣向が変わって何故か肌色が増えてきたシーンはつい目で追ってしまった。目の前であれを流す方が悪いと抗議したい所存だ。
「まぁ、男ならしゃーねぇよな。ちなみにお前が好きそうだと思って、新しく仕入れた奴あるんだぜ? レンタルだけどな」
「……ほう?」
思わず唸ってしまった。失敬失敬、ここは紳士の場なのだ。慌てず騒がず落ち着いて……。
「しっしっし。一ヶ月あるから、また見に来いよ。取っとくからさ。──そろそろ行くだろ?」
そう言われて時計に目をやる。短い針が5を、長い針が4を指している。秋の門限が六時であることを考えればそろそろ出た方がいいだろう。
「……うん」
鞄を担いで立ち上がる。ふと見下せば、ローテーブル上のグラスが満タンのままだった。
立ち上がった衝撃で波打つ水面が、置いていくのかと恨めしそうに渦を巻いている。
流石に出してもらったものを残すわけにもいかないので、一息で片付ける。
一、二時間は水分を取っていなかったのもあって、温くなっていた水は非常に美味しかった。近くの山の天然水だとかで無駄に新鮮な代物である。
「じゃ、お邪魔しました」
「へーい。エスコート頑張れよ」
「おう」
僕がこの家に来るたび二回虐める階段を踏み降り、ついでだからと鳴のスニーカーを揃えて外へ出た。
「さむ」
ストーブのない部屋に居たからと言って、外の気温とは違う。肌を突く寒さから刺すような寒さへ変わった外気に、体がぶるりと震えた。
念のため、鞄に突っ込んでおいたカーディガンを引っ張り出して装備。
防具は持っているだけじゃ意味がないぞ。
内心独りごちて、秋のいる『とまりぎ』へと足を踏み出した。
『とまりぎ』は鳴の家からそう離れてない。そうでなければ、久原姉妹と鳴が幼馴染にもならないだろう。良いな羨ましい。
零れてしまった願望はさておき、さして時間のかからない行き道を終える。
年季だけで言えば美里高校と変わらない古さを感じる一軒屋。
青の暖簾を腕押し、あっさりと退けて扉に手をかける。
「あ! いらっしゃいませー!──って、なんだ氷汰じゃ──」
何か話し込んでいたのか、カウンターの内側ではなく外に出て椅子に座っていた楓がぴょこんと跳ねるのが見えた。
「アンタが氷汰かい!?」
どっぷん。
既視感のある音だった。水一杯に入れたグラスが揺らされ、水面がうねり雫の跳ねる音。
それにしては重厚感があるというか、グラスじゃなくて、バケツに水を溜めたときみたいな、雫じゃなくて流体が跳ねる音。
日常じゃ耳にしない、それこそ掃除のときに床に水をぶちまける荒療治的なそれ。
言われる覚えもない怒声に思わず身を硬くした瞬間だった。
目の前で、怒りの形相を浮かべた女性が青いバケツを持ち上げている。
右手は縁付近に添えられ、左手で底を持って支えている。
まるで、今から正面に向かって水をぶちまけますよと言わんばかりの格好。
けれど、そんな水をかけられる心当たりがない。火事でも起きているのだろうかと後ろを振り返る。この辺りは木造建築、火が付いたらひとたまりもない。
「へぶ──っ!?」
ばしゃん。
そんな純粋な心配の心で向けた背に、容赦ない鞭が叩きつけられる。
ジンと来た痛みは冬場の縄跳びを彷彿とさせる。
バケツ一杯の衝撃の塊に、たまらず僕は落ち葉の布団とキスをした。
不味いというつまらない感想はさておき、寝返り一つ仰向けに。
「ちょっとお母さん何してるの!?」
「氷汰!」
慌てて駆け出て来た楓がバケツを持った女性に詰め寄っている。
目的の人物である僕の恋人も下駄を鳴らし、遅れてやってきた。
「大丈夫ですか!?」
着物が汚れることもためらわず、落ち葉の布団に膝を着き、僕の頭を助け起こす。
痛みで感覚が鋭敏になっているからか、硬い地面と背中合わせになっていたからか、秋の柔らかい手がよりいっそう背中に沈み込む。
「いてて……。えー秋? これ、どういうこと?」
いきなり水をぶっかけられたことに自分の感情が追い付かず、脊髄で秋に尋ねた。
「説明するには少々長く──とにかく中に入ってください。服も濡れていますし」
いつものからかいが交じった甲斐甲斐しさではない。
なんというか、素直な心配と本当に申し訳なさそうな謝意が混ざっている。へにゃりと眉を下げる彼女の語気に、次期当主の迫力はなかった。
「あー、うん。そうする」
いきなり背中を叩かれた衝撃と様子の違う秋に、理解の追い付かない頭が徐々に働き始める。そうだ。水をかけられたんだ。
そう考えると急激に寒くなって来た。せっかくのカーディガンがずぶぬれで、体を温めるどころか外気と一緒に敵に回ってしまった。せっかくの装備が呪いの装備に変わってしまう。
体の奥から竦みあがるような衝動が押し寄せてきて、
「──はっ……くしょん!」
ぶるりと震え、情けないくしゃみを吐き出した。