きっかけ
僕がここに来たのは父の海外転勤がきっかけだった。海外についていくか、実豊町の叔父の元に厄介になるかの二択を迫られた。別に英語が出来る訳でもなかった僕が採れる選択肢は実質一つで。
王手飛車取りな気分で仕方なく叔父の居る家へ転がり込むことになった。
前に住んでいた場所はそれなりに都会だった。
住む分には困らなくて、時々人の濁流に押し流されそうになるのを除けば快適だった。
けれど、身近な人々とムカデ競争をする実豊町は清濁を合わせ呑むどころか濁のない場所で、謎の生き辛さを覚えたのだ。
だから僕は居場所を求めてその辺をほっつき歩き、畑も見えなくなる森に行きつき、小さな社を見つけた。
人生の終着点みたいな苔むした社は哀愁が漂っていて、何か現れそうな雰囲気が僕の目を掴んで離さなかった。
両親と暮らしていた頃では決して見かけなかった代物。小説の一ページを飾るような光景に興奮も増して、僕の「瞳」もそれに応えてしまった。
そして僕は、和服の少女を象った神様に出会った。
何故神様と分かったか? 難しい話じゃない。僕の「瞳」は空想を映す。
僕の興奮度合いに応じてどこまでの空想が見えるか変わるので、普通に生きている限り普通の人間と変わりない。
いつからそうなったとかは自分でも分からない。現実逃避を求めていたらいつの間にか見えるようになっていた。僕自身原因なんてどうでもよくて大事なのは結果。
この宝石みたいに美しく。
一夜で溶ける粉雪みたいに儚く。
手に届かない朧月みたいに神々しくて、でも限りなく人間に近い俗物。
手に届きそうで届かない空想に僕は心底惚れ込んだ。
僕にとって誤算があったとするならば、その神様が見える人間が僕以外に居たことだ。
『おー? 見えてる?』
「────!?」
声の主も自覚していない反射的な呟き。水紋を広げた一滴に反応して振り向くと、神様と瓜二つの少女が佇んでいた。まさか双子の神様なのかと疑いもしたが、美しさと儚さはあれど神々しさがない少女は正しく人間だった。
目を惹かれたモノがあるとすれば、立ち振る舞いが自信に満ち溢れている不思議な人物だったことか。
「……しゅう様」
『あきー! この人間面白い。わたしのこと、ばっちり見えてるよー』
「……!!」
あきと呼ばれた少女が僕をじっと見据える。見た目こそ違いのない二人だけど、僕を見つめる目の暖かさに違いがあった。神様は神様らしい残暑も消し飛ばす冷たい目だけど、その少女は期待に満ちた光を目に灯らせていた。
そして、彼女の行動は迅速だった。僅かな隙へ薙刀を振るうが如く、彼女は流麗なお辞儀を繰り出す。一見下手に出ているように見えて不思議と圧力の感じる一礼だ。
「一目惚れ、しました──どうか、付き合ってくださいませんか?」
『わたしからも、お願いっ!』
俗世から遠ざかった木漏れ日の下。和服女子の告白──それに伴った神様の副音声。
非現実への扉に、僕はつい頷いてしまった。
*
『あき……どうしたの? いくら時のはやい人間でも、子供はすぐに出来ないよ?』
「それが……皆、子供の作り方を教えてくれないのです」
『なに、そんなこと。そんなのこいつを押した──』
「わーーーー!!!」
咄嗟に訪れた命の危機に全力で声を張る。神様がなんてことを言うんだ。昼間の僕や楓の苦労を水の泡にする気か。
いくら神様でも許せることと許せないことがある。現実にはいないので口を塞いで止めることも出来ない。脳へ響くので聞こえている可能性もあった。
「──うるさいですよ」
冷えた声、ほんのり眉を持ち上げた顔が僕を覗き込む。あと一ミリでも眉を持ち上げるようなことを口にすれば、前髪がそこらの落ち葉の仲間入りだ。
「ほ、ほら。情操教育は両親に頼むんでしょ。約束破るのは良くないって。秋だって、人の答案用紙を見るタイプじゃないでしょ」
「……そうですね。カンニングはよくありません」
『あー、言わない方がよかった?』
こてんと首を傾げるしゅう様は横の同一人物とは思えないくらいとても可愛い。思わず湧いた怒りも、傾げた首と一緒に傾いてころころ転げ落ちていった。
「いやいやそんなことも──ないけど」
『ごめんねぇ』
声質こそ同じなのだけれど、一音を丁寧に発音する秋と音のつなぎが怪しい舌足らずなしゅう様とではまるで別人だ。
……ほんとに別人なんだけれども。姿が一緒なのに聞こえてくる声の雰囲気が違いすぎて、今でもたまに困惑してしまう。
「そちらも気になることは気になるのですが、もうすぐ豊穣儀を執り行うのでお知らせに来ました」
『そういえば、そんな季節だったねぇ』
しゅう様がゆらりと上を見上げ、紅く彩られた木々を目にして相好を崩した。
しゅう様とは二ヶ月ほどの付き合いだけど、僕が知っていることは多くない。
まだ見たことがないけど、毎年豊野家が行う豊穣儀によって、この町に実りを与えているとかなんとか。実際、この町で不作になったことは一度もないらしく、雨風にも負けない強い作物が常に育つらしい。
「今年もいつも通り行います。何か問題はありませんか?」
『ないよ、任せて。わたしにかかれば御茶の子さいさいよー』
ふふんと自慢げに薄く笑う。しゅう様は表情の変化が乏しいわりに口調は豊かだ。相反する要素が余計に人間っぽくなくて、惹かれている。
「分かりました。ご用件は以上です。また当日お願いしますね」
『はーい。まったねぇ』
手をゆらゆら柳みたいに揺らし、しゅう様は霧に溶け消える。実豊町に点在する社であれば好きな時に跳べるらしく、今もどこかへ移動したようだ。
「報告だけだったんだ」
「何か問題でも?」
わざわざ人気のいない社を選んだ理由は分からなくもない。他の人にしゅう様と会話をしているところを見られない為だろう。加えて、恋人としての演技もあるに違いない。
「何も。強いて言えば、もう少し話したかったなって」
「ここに同じ姿の人間がいるのですから、それで我慢してください」
「だから強いて言えばって話。僕も、君みたいな美人と話せることは光栄に思ってる」
光栄に思ってる。それは本当だ。多分、しゅう様と会っていなければ何の文句も出ないくらい良物件──言い方が悪いが、その思いは本当だった。
比較対象の相手が悪いだけで、彼女なら大抵の世の男を落とすことが出来るに違いない。
それくらいの美貌、もとい火力を持つのが豊野秋という戦車だ。家柄の堅さも鑑みれば重戦車と言っても過言ではないだろう。……本人の戦闘力も含めて。
「なら、子供を作ってくださいますか?」
「それは──もう少し、考えさせてほしいなぁ」
その戦車の主砲が唐突にこちらへ向けられ、僕は白旗を上げるほかなかった。
*
「ただいまー」
居間の扉を押し開けながら、まだ言い慣れない挨拶を口にする。返って来ることの方が少なくて、僕の中で朽ち果てていた言葉だった。
「お兄ちゃん! おかえりー!」
幼い女の子の声が帰って来る。机で紙に向かって座っていた子供──大瀬栞が僕の元へと駆け寄って来た。最近のお気に入りはお下げらしく、僕の帰りを素直に喜ぶ彼女は二つの黒を揺らしている。
「栞、元気にしてた?」
「うん! 今日はね! コンパスの使い方おぼえた!」
「コンパスか、懐かしいな。お兄ちゃんにも見せて」
「いまね! まるを書くしゅくだいしてるの!」
多分、こういうやりとりは当たり前のもので、慣れてしかるべきものだろうけど、僕はそれの受け止め方を知らない。
最初は他人の家特有の匂いに惑わされていたけれど、二ヶ月も住めば都になるらしく何も匂わなくなった。年季の入った机の色は濃いキャラメルみたいな味のある色へと染まっていて、傷も見えるキャラメル色の食卓には宿題らしいプリントと回転を止められたコンパスが無造作に置かれている。
彼女の父でもある叔父は警察官をしていて、帰りが遅くなることが多い。必然的に子供一人で家に置いて行かれるが故に、部屋は静か。一人であることを自覚させられる沈黙を嫌ってか、栞が見なさそうなニュース番組がBGM代わりに垂れ流されていた。
「お、栞はちゃんと出来てるかなー?」
「しおり、えらいから出来るよ! 見ててね!」
たた、と机へ駆け戻り、椅子に座りなおした栞がコンパスを握る。
まだ使い始めだからか、一息で円を描くのは難しいらしく、半分まで行ったところで一度コンパスを握りなおしていた。小さな手に余るコンパスはやけに大きく見えて、こんな子供が一人で留守番をさせられているのは、思うところもある。
けれど僕は部外者で、父娘の間を取り持つことを出来る訳もなく、仮初の兄として栞の寂しさを埋めることしか出来なかった。
少なくとも、栞は僕の存在をそれなりに良く思ってくれているみたいで、こうやって仲良く話せるぐらいには親交を深められている。
けれど、彼女は幼いなりに父の不在を悲しんでいて、父が帰ってこない原因である仕事を妬み、その大本である豊野家を嫌っている。そんな彼女が僕の恋人のことを知れば余計に面倒なことになると分かっていた。だから、栞は何も知らない。
「ほら! できた!」
「流石は栞! 偉いぞー」
「えへへー」
栞の頭を撫でる。これが好きらしい栞は気持ちよさそうに目を細めていた。
僕は嘘をついている。いつかバレるとしても、この笑顔を崩すなんて僕には出来なかった。