騒がしい秋が通り過ぎて
騒がしい秋が通り過ぎて、僕は答えを得た。
まだ踏みなれない足場だけれど、自信をもって言える居場所が出来た。
──いい加減、慣れたって言えるかもだけどさ。
「お口、開けてくださらないのですか?」
お昼休み。各々が仕事から一時の解放を楽しみ、昼食と談笑を楽しむ時間で。
真冬に入った学校では、生徒達が暖を取ろうと部屋の片隅に置かれた石油ストーブに机を寄せている。僕達も例に漏れず机を寄せる──どころか、海を割るかの如く机の群れへ立ち入り、特等席とも呼べるストーブの真横──教卓でパイプ椅子を並べ、秋と食事を共にしていた。
目の前には鮭の切り身を掴んだ漆塗りの箸が突き出されている。ほんのりとした塩気と特製の甘タレの匂いが鼻をくすぐる。
小首を傾げる箸の持ち主こと、長い黒髪の美人。垂れ目もあって遠くから見る分には大和撫子と評するのが似合いの人物だ。お気に入りらしい紺色を基調にした和服もいつも通りだ。
美人に「あーん」をされている、幸せな光景。
「もう少し人のいない所でって、言わなかった?」
「いいじゃありませんか。夫婦が仲睦まじい姿を見せるのにおかしなことでも?」
目の前の声以外で耳に届く、ひそひそとした声。周囲のクラスメイト達の野次のようなものだ。
……誰だ一生やってろとか言ったやつ。
……わざわざ生徒の前でこれをしてる方が悪いけどさ!
同じく昼休みを享受する学生達も当然ここで昼食を取っている。別にピエロになったつもりでも、動物園のパンダになったつもりもないけれど、僕たちは見世物と同義だった。
「──ありますか?」
「……何も」
いつもの如く反論を許さない彼女の制圧。慣れてくると言い聞かせてるように見えてほんのり優しさの残る声が癖に……駄目だ駄目だ。墜ちるのは家でと決めたじゃないか。
鮭の切り身が入っていたお弁当──またの名を重箱はさしずめマガジンと呼ぶべきなのか。まず、お弁当なのに重箱とはこれいかに。三が日でしか出番がないのに、時々見かけるんですけど貴方。
……ともかく、これ以上の抵抗は彼女の怒りを買うだけ。大人しく敗北を認めて口を開ける。
「あ~ん」
「ん」
切り身が口へと入れられ、咀嚼する。口の中で、まだほんのりと熱を保った切り身が口の中で柔らかく刻まれて。最近頼んでみた甘タレもいい味を出していた。こうして食べさせられるとご飯と一緒に食べられないので、あえて単品でも満足できる味にしてもらっていた。
なので、美味しさに頬を許せて迷いなく断言する。
「美味しい」
「そうですか」
誠に美味しかった。胃袋を掴まれて早数年。三食を欠かさず食べることが楽しみになるのは世の中の不思議に違いない。……いずれあっと驚かせるようなご飯を作ってやりたいけど、勝てる気がしない。
「──けど秋さん、もう一つお箸をいただければ嬉しいかなぁと思うんですけど……」
「私と氷汰なら一膳で十分です」
僕にだって羞恥心はある。流石に生徒達の耳目を集めながら妻に食べさせてもらう生活を続けられるほど僕の心臓に毛は生えていない。だから、お昼ご飯くらいは自力で食べさせて欲しいという願望を伝え、あっさりと切り捨てられる。一息も間のない一刀両断だった。
あの頃よりも切れ味が増している気がするのは気のせいだろうか。
「そうですか……」
大和撫子にふさわしい振る舞いだが、物言いには有無を言わせない圧力が垣間見える。それは彼女の立場の裏返しだ。
この町を牛耳っていると言っても過言ではない豊野家の当主、豊野秋。
僕の妻でもある。
生徒達が下手に騒がずひそひそ囁くに留まっているのは、僕らのやりとりに慣れたと言うのもある。けどそれ以上に、彼女の機嫌を下手に損ねれば暮らすことも難しくなるからだ。
けれど、それは昔の話。
「氷汰せんせー! せんせーってまだハタチなんですよね?」
「うん、そうだね。それがどうかした?」
寝るに寝れない教卓の目の前。普段は先生の威圧感に苛まれる席の女子生徒が目を爛々と輝かせて身を乗り出していた。
「それ、二人目ってホントですか!?」
女子生徒の指先は秋のお腹へと向けられていた。お腹いっぱいとかそういうごまかしのきかないくらい、膨らんだ腹部に。
元気な赤子が生まれようと、すくすく育っている証であり、その内吉報が訪れることを示す幸せの予兆だ。
「ええ、そうですよ」
「わぁぁ!」
僕が頷きを返す前に、秋がにこやかに答えた。
赤子のこととなると秋は人一倍、いや二倍くらい優しくなる。
転職だとか、フリーだとか、胡散臭いと思える話も転がる世の中で、就活の概念すらなく、豊野家が仕事を割り振る閉じた世界。豊野氷汰もこうして教職の身についている。──勉学に携わるから、ちょっと面倒なこともあったけどね。
勿論、豊野家が何もかも全てを取り仕切っているわけじゃないけど、一般家庭程度の仕事を干すくらいなら簡単に出来てしまう。それほどまでに豊野家の力は凄まじい。
けれど、赤子のことを話す秋はそんな力を握っていると思わせないくらい穏やかな雰囲気を纏っている。
赤子の話を聞いて盛り上がる生徒達。健全なのだろうか?
「センコー!」
「……せめて先生と呼べ。で、どうした?」
「初めてはいつ詩シたんすか!」
「…………」
やっぱ健全じゃねーな。情操教育足りてね……足りてはいるのか。
知らないよりましかもしれないのは皮肉すぎやしないかな。
「それは勿論、あの秋の日の────」
「はいはい秋さんちょっと黙ってねー」
未成年相手に変なことを口走りかけた悪い妻の口は手で塞いでおく。
仮にも豊野家の当主なんだからもう少し節度を持ってくれないものか……。
いや、霞さんの頃からこんな感じらしい無理か。
もはや豊野家の女性は全員こうなのかもしれない。しゅう様も言ってたし。
「姫さーん。そろそろ帰るぞー?」
ガタイの良い金髪男──信藤鳴が教室の扉から顔を出す。作業服と首にかけたタオルが良ーく似合ってる。
僕は教師の仕事があるので引き続きここにいるけど、秋は豊野家の当主としていつまでもここには居られない。ましてやお腹に赤子を備えているのだから、家で安静にして欲しいんだけど……。
「……鳴、私達の時間を邪魔するおつもりですか?」
秋は秋で、この時間が大事らしい。今しがたまで穏やかだった雰囲気が牙を剥き、周囲には紅葉が漂いだした。僕としても昼に秋の手料理を食べれる機会は減ってしまったのでとても嬉しい。嬉しいんだけど、一応生徒たちの模範たる先生だから……ね。
「いやいや、そうじゃねぇさ」
鳴が恐れ多いと首を振る。
随分と既視感を感じる構図だった。
「一応氷汰も先生さ、先生が学校の仲でも嫁に現を抜かしちゃいれねーさね」
「一理あります。が、私は豊野秋です」
「そりゃそうだ」
「おい納得しないでくれ」
頼れる友人の助け舟はやっぱり泥船らしい。……ていうか、秋も豊野家でゴリ押すな。
あの時と違って毎日じゃなくなったから助けられなくても構わないんだけど、今回は秋が折れないといけない。秋の送迎は鳴の仕事だった。
鳴は苦笑しながら後ろの女性に視線を送った。助け舟が助け舟を求めるのも変わっていなかった。
「まったく、ウチの姫さんは我儘なこった。こっちの身にもなって欲しいもんだぜ。な、小枝」
「女性のメンタルは乱降下するモノ。ましてや権力者となれば誰も止められない。鳴も諦めて仕事に遅れたらどう?」
「流石は小枝です。私を止めようなんてことが間違いですから」
「……流石か? あと、権力を肯定するな。生徒の教育に悪い」
佳介の後ろからひょいと顔を出し、後ろで束ねた髪を揺らしてさらりと毒を吐いたのは、彼の幼馴染である久原小枝。喫茶とまりぎの店主である彼女は制服も兼ねた緑のエプロン姿だ。
二人並んだ彼らの薬指には銀に輝く指輪が嵌められている。
何だかんだ小枝も鳴を捕まえていた。正直、僕と秋としゅう様の三角関係よりも鳴の方が騒がしかった気がする。当事者とそうじゃない側の違いかもしれないけど。
「豊野家の当主にそれを願う方が馬鹿だよ諦めろ」
「そういうことです。もとより私も好き好んで邪魔をしに来たわけではありません。業腹ですが、時間もありますから箸を許可しましょう」
「……ははー」
オトコノコのプライドはここではゴミである。
生徒の前で在ろうと僕は四肢を素直に投げうって平服出来るんだ!
……こんな教師になってしまった自分自身に心底嘆きたい。
ほら、くすくす聞こえてくるし! 笑いものにされてんじゃん!
「もう少し氷汰が食べるところを見たかったのですけど……仕方ありませんそろそろ行きましょう」
「もう?」
鬱陶しがっておいて、あっさり行かれると呼び留めてしまう自分の情けなさは相変わらずだった。
成長出来てるのかな、僕。
酒も飲めるようになったし。……前から飲んでたけど。
子供も出来たし。……もう二人目の話になってるけど。
仕事にも就いたし。……威厳欠片もなさそうだけど。
成長、出来てるのかなぁ……?
「今日はあの日、ですよね?」
「分かってるよ。残業しないし、校長も連れてく」
「当然です。……待ってますよ」
「うん、悪いね」
「仕事ですから」
ゆるゆると首を振り、秋が鳴と小枝を連れて去っていった。
「ふぅー……」
家ならされるがままでもいいんだけど、学校だとそういう訳にはいかない。
仮にも生徒たちの模範たる教師────
「せんせー! 子供の名前決めたんですかー?」
「先生! 息子さんが3才でしたよね? じゃあ、秋さんが子供産んだの……」
「センコー! いつシたか教えっろってー!」
「俺も気になる!」
「秋さんのお弁当アタシも食べたい!」
「あー! 分かったから一気に来ないで! 一人ずつ!」
……教師、なのかなぁ?




