閑・秋の月
月が爛々と煌めいています。今宵は満月でした。
太陽が出れば見えなくなってしまうその輝きは、つい少し前に私──豊野秋を魅了せしめたものでした。
光の下で生きる者達にとって太陽は、私達豊野の人間と似ています。
良くも悪くもその存在に一日の行動を制限されるところなんてそっくりでしょう。
そして月は太陽の存在で輝き、その存在のせいで見えなくなるのです。
ですが、黄昏時だけの程よい暗さが両者の露見を許します。
太陽と月の逢瀬。
短い時間ながらも、彼との試合は私にたくさんの驚きを与えました。
『先生の許可も貰えたことですし、氷汰君、行きましょうか』
あのお母様の呆けた──それでいて真冬の吹雪よりも底冷えした恐ろしい声。
『力みすぎよ』
薙刀しかり、
『足で歩かない。体で歩くの』
古武術しかり、
『踏ん張らない。そのまま流しなさい』
舞の練習しかり。
それはただの指摘です。
けれど、首筋に刃物を添えられているような、背筋が凍るが如き恐怖感が煽られるのです。
稽古で失敗する度に投げかけられた私にとっての恐怖の象徴。
その原型は言葉ではなく、自分にも他人にも厳しいあの凍てついた声。
『嫌ですけど』
『……あら』
子供の我がままみたいな氷汰の返しは刃を交えた後であろうと私の耳に焼き付いています。
命のやり取り──客観的には一方的でしたが──以上に衝撃的でした。
隣で聞いている私の心臓が止まるかと思うほどで。
お母さま相手にあんな啖呵をきれる相手なんて聞いたこともありません。
そんな相手はこの地に居ないですし、居ることを許されません。
彼が私の恋人という簡単には崩せない地位を持っていたからこそ、首の皮一枚つながっただけとも言えます。
でも、その綱渡りのおかげで……私は彼に初めて興味を持ちました。
同時に、今まで彼に興味を持っていたのではなく、彼の異常に興味を持っていました。
故に、彼の人となりも詳しく知りませんし、それが育まれた過程も知りません。
だから、彼が席を外した隙に彼の一時的保護者──叔父の大瀬拓さんに尋ねました。
『彼は……貴方から見てどんな人間ですか?』
『氷汰ですかい? どんな人間、ですか……アイツぁ、俺の兄貴の子じゃなけりゃ、もうちょい捻りない人間になったんでしょうよ』
兄貴の子にしちゃあ、出来すぎてるくらいですよと拓さんは彼をフォローするように言っていた。
きっと氷汰が粗相でもしたと考えているのでしょう。
……そういえば、お母様に啖呵を切るぐらいです。不安になる方が当然でした。
私の苦笑を他所に、拓さんは語り続けます。
『良くも悪くも子供に期待しすぎちまったんです。俺の兄貴は』
彼の両親、もとい彼を囲む生活環境は私と少し似ていました。
親の優秀さを受け継ぐため、為すべきことを為すため、それなりに良い教育を施されていたらしいです。ですが、彼には私と違い、その能力を得る目的がなかったのです。
私は豊野という肩書きを持ち、それゆえにこの実豊町で圧倒的な地位を得ています。
ですが、それゆえの信頼もあり、私はそれに応えるべき待遇を貰っています。
いっそ呪縛ですらありますが、これを放り出せば間接的に命を奪ってしまうことにすらになりえるでしょう。
……その呪縛が、私を私たらしめています。
『せめて褒めてやりゃあいいものを……。だからあいつにとってのお爺ちゃん──俺の親父にべったりになっちまいました』
彼には報酬がなく、燃料もありませんでした。すべからく当然である。それが彼を取り囲む環境でした。
そんな中、彼に唯一助け舟を出してくれた御祖父様がいたらしいです。
これを読んでみろと投げかけられた小説を手に取り、読み終え、びくびくとしながら御爺様に感想を語ったのだとか。
『伝聞にゃなりますが……読書感想文で受賞を狙わせるための──まぁセンコーに受けそうなキレイゴトですわ。びくびくしながら、顔色を窺いながらきっと思いもしていない感想を語る。親父も随分キレてたもんですよ』
親に怯えるところまでそっくりなのは……少々予想外でした。
ですが、次期当主を背負う私よりも氷汰が頑張るためのモチベーションは少なかったに違いありません。
お母様は私に失敗を許しませんし、常に豊野家の姫たる振る舞いを求めます。
けど、それは私達の生活を、豊野家に仕えてくれる人々に報いるためでもあるからです。
お母様の顔色を窺うことはありましたが、お母様以上に……周囲の反応が私を豊野秋たらしめたのですから。
『お前の感想を、お前の意思を、お前の伝えたいことを聞かせろ──ってね』
おかげで本っつうか、創作物に没頭しちまったらしくて兄貴が怒ってましたよ。
なんて、拓さんは微塵も怒られたことを気にしない笑みで言っていました。
学校に持ってくる鞄が何故かいつもパンパンなのも彼の趣味である読書から来たらしくて。
『多分……自分の意思で他人を自由に動かせると思ってる人間が嫌いなんです。アイツ』
そんな彼が母に歯向かった理由もこの言葉に込められていました。
『あんな兄貴のもとで育ったくせに、栞が懐くくらい良い奴になってることの方がびっくりしちまいましたよ』
ですが、少しだけ解せないこともあります。
そんな彼が人々の上に立つ私など、好きになるはずがないでしょう。
私の中の思考をいまだに占有しているその悩みは深刻でした。
せっかくのいい機会だったので、ついでに尋ねました。
──彼は私のことを好きになる人間かを。
『ハハハ! 姫様でもそんなことを悩むんですね』
私が真剣に悩んでるというのに、帰って来た第一声は陽気な笑い声でした。
ちょっと無礼だったと思います。
もしこの台詞が氷汰のものだったなら、愛刀の落葉で切り捨てていました。
『──なんでアイツぁ姫様の告白を受けたかは知りませんが、男ってのはもっと単純なんですよ?』
あんなひねくれた人間に単純などあるのですか。
ついそう言い返してしまって。
『姫様ほど美人な人、大抵の男は無視できないですからね』
思ったより単純な答えでした。驚きです。
思わず、「そうでしょうか?」と聞き返してしまったほどです。
返事は変わらず──男は単純、とのことでした。
でも──少しだけ気がかりなこともあって。
昨日の氷汰としゅう様は何を話していて、何をしようとしていたのでしょうか。
なんとなく胸の奥でちりつく疑問がモヤモヤして晴れません。
上手く言語化出来ないのですが、端的に言えばつまらないと、思いました。
だって、氷汰は私の所有物のはずです。
いえ、しゅう様が彼に話しかける権利がないのは百も承知で……。
「あ――……」
やっぱりモヤモヤします。
憂鬱ではないけれど、釈然としないといいますか……。
──そうです。
ちょっといいこと、思いつきました。




