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おいし

「始めなさい」


 僅かにゆとりを持たせていた聴力が目的のブツを手に入れる。


 これで耳も彼女へ集中できる。僕の世界にはもう完全に秋しか映っていない。


 油断なく薙刀を構え、僕を制圧せんと覇気を放つ彼女から目を離せない。


 生存本能、防衛本能が僕の顔を固定していた。


「こないのですか」

「レディファーストって大事でしょ」

「そうですか」


 言うや否や、秋の姿がスライドする。まるでフォークのようなブレ方だった。


 とても着物姿とは思えない速度で僕の前にまで詰め寄り、薙刀を振るう。


 ヒュン、と道場の張りつめた空気が裂かれる。手にした木刀を割り込ませるには思考速度が足りなかった。


 咄嗟に身を引いて何とか回避に成功する。逃げ遅れた前髪がひらひらと僕らの間を舞い落ちた。


「怖いね」

「降伏しても、いいんですよ」


 声から暖かさが消えている。多分、これが彼女からの最後通告。

 断れば容赦はしない。言外にそう訴えている。


「せっかくの彼女との試合を降伏で終わらせるなんて、そんな勿体ないことしないよ」

「──ッ!」

「おっと」


 唸る横薙ぎの銀閃。ブレるような力強い空気の流動が彼女の気持ちを教えてくれていた。

 いつも繰り出されるものより冷静さを欠いた一撃だった。

 

 だからと言って避けられるなんてはずもなく。

 ぱちんと制服の第二ボタンが薙刀の刃に触れてはじけ飛ぶ。


 卒業式に渡せるボタンがなくなってしまったのは非常に残念だった。と悔いておこう。

 余裕をもって避けたつもりが掠っているのだから世話がない。


 ちら、と背後に視線をやる。あと二回も同じ回避をすれば僕に退路は無くなる。

 逃げてばかりはいられない。オトコノコ的プライドとしても避けてばかりの試合を見せる訳には行かないだろう。


 ちっぽけなプライドながら意を決し、返された刃に木刀を滑り込ませて防ぐ。


 僕の力がないのか、扱いが下手なのか、秋が上手なのか。


 たった一度の打ち合いで木刀が僕から逃げ出してくるくる宙を舞った。


 よほど木刀は僕のことが嫌いらしい。


 木刀を持っていた両手が骨まで染みわたる電撃に震えている。


 昔の武士はこんな打ち合いを何度もしていたらしい。

 ……本当に同じ人間か? 


「貴方の底は見えました」


 勝利宣言とも取れる台詞を吐かれる。

 事実、僕はどうやったら勝てるのか一つもビジョンが見えなかった。

 僕の瞳はつくづく現実で役に立たない。未来でも見えれば良かったとたまに思う。


 悔いたところで僕の()に映るのは相も変わらない──千切れ舞い踊る紅葉。

 自分にしか見えない景色。その異能に驕ったふりで強がりを、虚勢を見せる。


「打ち合いで勝てるなんて思ってないから」

「強がりですね」


 ……その通りです。


 内心ぶんぶん頷きつつ、面白半分で差し込んでおいた短刀を抜き取る。


 さっきよりも刃渡りが小さいせいで非常に頼りない。まったく信頼できない懐刀だった。


 トーシロなりに構えた短刀が見えないのか、秋は攻撃の手を緩めない。

 勝利宣言が彼女の余裕を産んだのか、空気を裂く音は両手で掻くような乱雑さから密やかで涼やかな乾いた音を取り戻していた。


 手にした短刀をちらと見て僕は肩を竦める。

 必要最低限の力から繰り出される一撃を受けれるほど、僕は自惚れていない。


 だから僕も手にした短刀が見えないくらい、短刀を頼らない。


 転げ、下がり、無様に逃げる。


 きっとこの一方的な攻勢は一分も経っていないはずなのに、五分は経過したように思えた。


「ハァっ──ハァっ……は~」


 もう短刀を前に構える元気もなかった。


 彼女の一挙一動を見逃さないと血液が目に集まる。

 捉えた行動に反応しようと心臓がどくどくと暴れまわり、全身に血液を送り出していた。

 血液の乱用、血が足りないと脳が視界を揺らがせることで酸素の不足を訴える。


「ハッ……ハッ、ハアッ」


 空いた左手を膝に付き、肩で息をして酸素を取り込む。それでも満たされなくて、あえぐような荒い息を何度も繰り返した。


 部活にも入っていない人間に武芸なんて百年早かったらしい。


「そろそろ降伏したらどうですか。──私も、貴方を無意味に傷つけたいとは思っていないのです」

「──言った、でしょ? そんな、勿体ないことしないって」


 見抜かれた虚勢を貫く。ひれ伏さないと決めた以上、今ばかりは豊野秋にだって抗って見せよう。


 僕の意志を受け、僅かな温情を残していた秋の瞳が凍てつく。

 心臓が締め付けられるように竦みあがっているが、目を離せない自分も居た。


「だから、盾ぐらいは許して欲しいかなぁ」


 彼女の態度を理解できない道化を気どり、僕は三下みたいなやっすい笑みを貼りつけ学ランを脱ぐ。

 脱いだ方が回避には優れるだろうが、万が一当たった時を気にして脱げなかった厚い生地。短刀を持たない左手に巻き付け即席の盾を握る。


「……それで防げると思いで?」


 気に触ったらしい。彼女の手に収まっているのは愛刀だ。

 ペットを貶された感情に近いのだろう。

 

 ……たぶん、きっと、たぶん。正確に考える余裕なんて一ミリも、一ミクロンもない。


 秋は小さく鼻で笑うと、薙刀を握る手にぎゅっと力が籠めた。

 彼女の怒りがより強い戦意となって溢れ出していた。


 真冬の冷水より冷たく、けれど真夏の太陽みたいに。眼光は強く鋭く……僕を射抜く。

 溢れ出す既視感のある気迫に、目の前の少女が豊野霞の娘であることを再認識させられる。


 女の子的かわいげなんて欠片もない。手加減なんてものもゼロに等しいだろう。


 首元をくすぐる死の気配が目の前の少女から発されているなど信じられるだろうか。


「……あは」


 今、豊野秋は僕を全力でモノにしようと薙刀を振るっている。


 もう人としての善意だとか、友達を気遣う心だとか、名目上の彼氏を気遣う演技も脱ぎ捨てた。

 余りある女としての魅力を使わず、現実にそぐわない戦士として僕を制圧しようとしている。そうしてまで、僕を手に入れようとしている。

 権力や立場に驕ったモノじゃない。あくまでも彼女自身の力だ。

 親なんかよりもよっぽど所有権が似合っているように思えた。


 豊野秋は精神的にも物理的にも僕へ刃を迫らせる。


 なんて恐ろしいことか。なんて胸が震えることか。


 ……中々どうして心が惹かれることか!


 腕に胸を当ててくるとか、弁当を作ってきてくれて「あーん」してくれるとかより、はるかに僕好みだった。


 これでも自分のことをしゅう様一筋と思っていたはずが、僕はどうしようもなく目の前の豊野秋という存在に心を惹かれていた。


 これが噂の吊り橋効果か、と見当違いな僕の苦笑に秋が目を細める。


「何が、おかしいんですか」


 僕にとってこの試合はもう意味をなさない。


 とっくに僕は身も心も彼女に堕ちた。僕が勝とうとも負けようとも、秋は欲しいモノを手に入れられる。

 ……笑うしかないだろう?


「……僕が、君を好きだと言ったら?」

「──何をッ!?」


 素直な感情を口にする。

 一瞬薙刀を持つ手が緩んだ。僕の目にもしっかりと焼き付く見逃し難い隙だった。


 これが最初で最後の好機。


 だから僕も、彼女を手に入れようと短刀を振るいにかかる。


「卑怯な!」


 けれど、圧倒的なリーチ差は一息で埋まる訳もなくて。

 後ろに引きながら刃を振るわれたならなおのことで。

 後ろに避けるだけならともかく、距離を詰めるための前進回避なんて素人に出来るはずもなかった。


「割と本心っ!」

「────」


 この世で最も険悪な告白まがいをしかけたところ、彼女の手元が狂う。

 避けることを諦めていた銀閃は僕の頬を掠めるだけに留まった。



 あと四歩。



 涙とは違うべっとりとした液体が頬を伝うのを感じながら、距離を計る。



 あと三歩。



 短刀が十分届く距離。



 果物ナイフよりは長いとはいえ、薙刀相手にはあまりにも心もとない。

 けれど、刃と刃ではなく、刃の進路に盾を置くくらいなら素人の僕にも出来る。



 電撃が走った。かーんと獅子脅しみたいな音が鳴り響いて、僕の手元から短刀が消えた。

 恐らくどっかでほっつき歩いているに違いない。これだから信用ならないんだ。



 責任転嫁も良いところである。

 秋に聞かれれば怒られるだろうな、と独り言ちながら二歩詰めた。



 あと一歩。



「──」


 彼女の口から漏れ出た吐息に混ざる驚き、羞恥、ためらい、怒り。

 人を不安定にさせる感情が乗ってしまった刃に、僕が惚れた豊野秋は居ない。

 だから、僕は迷いなく自分の腕を薙刀に差し出した。


 ざく。


 刃が制服に埋もれ、硬い生地に差し込まれる音。

 金属の冷たさが僕の肌にまで届いた。


 けれど、それまでだった。


 真剣白刃取り。なんて、素人に出来る訳もないけど、グローブありなら話は簡単だ。

 片手なんてもっと難度が高いけど、受け止めるだけなら難しい話じゃなかった。


 勿論、二度も腕に電撃を走らせた薙刀を受けるのは簡単じゃない。

 一歩間違えればどこぞのチーズみたいに裂けそうだったけど、僕の左腕はしっかり健在だ。


 そして掴んだ秋の薙刀。遠かった彼女との距離は迫り切っていて──


「らあああッ!!」

「──きゃっ!?」


 逃げられないよう薙刀を引っ張り、彼女の体を引き寄せながら右肩で体当たり。

 もつれこみ、倒れ込む僕らの体。

 どしん。と、秋の柔らかい体越しに衝撃が走った。



 わっ──と、遠くで歓声が聞こえた気がした。



「……」

「……」


 キスできそうなくらい秋の顔が間近にある。近くで見ても凹凸が見えない滑らかな玉肌。


 驚きに目を見張る彼女を直視してしまえば、もう陥落してしまいそうで、逃げるように視線を下に逃がす。薄くファンデーションを塗っているのか、よく見ると首元と顔の肌色の明るさがほんの少し違っていた。


「……勝負、あったよね?」

「……ですね」


 床ドン、とでも言えばいいのだろうか。彼女の肩上あたりを左手が突きさし、右手で握ったままの短刀が彼女の首元に添えられている。


 弾けて飛んだはずの短刀が傍に落ちていたのをこれ幸いと拾ったのだ。

 ……さすが懐刀と誉めてやろう。


 ともかく、この世で一番物騒な床ドンだった。


「何がお望みなんですか?」

「……ズルしたようなものなのに?」


 正々堂々とは言えない試合だったので、すこし罪悪感が湧いていた。


「戦場に二度はありません」

「ここ、現代日本っすよ」


 あなたはどこの時代を生きているんですか。


「今勝ったのは貴方です」

「それは、そうだけど。……別にないからさ」


 この試合に勝ち負けの重要性は僕から失せていた。


「何がですか」

「自由?」


 上手く言葉には出来なかった。でも、言いたいことは伝わったみたいで秋がふわりと笑う。

 そして、じとりとした目を向けて来た。


「……あれ、本気ですか?」

「──どれ?」


 とぼけた。それはもう盛大に。

 彼女が聞きたいこと、僕が聞かれたこと。


「……はぁ」

「悪いね」

「自覚あるじゃないですか」

「何の話か分からなくて──悪い、ね」

「はぁ、もういいです」


 多分、一致していただろう。


 それでもとぼけた僕に秋は二度ため息をついて、僕の頬に人差し指を押し付け、離す。まるで、何かを拭ったみたいに。

 僕と彼女の間で往復した指にはそれはそれは紅い液体がべっとりと。


 あーあ。数少ない貴重なリソースが流出してら。


「ごめんなさい。傷つけてしまって」

「……まぁ、頬に刀傷ってかっこいいし。大丈夫」

「そうでしたか──んっ」


 呆れ交じりの頷き一つ。理解はされなかったかと嘆きかけた僕の思考が止まる。


 危険信号色で染められた指が彼女の口元に運ばれたのだ。


「え、ちょ」

「でも、私も好きですよ? 私のモノって、一目で分かりますから」


 指についた血をぺろりと舌でを舐めた秋は、蠱惑的にそう言い退けて見せた。


 当たり前のような動作。小さく呟いた「おいし」なんて言葉が落ち着き始めていた鼓動を加速させて来る。


 それでもまだ足りないのか、小さな舌でぺろりと下唇を舐めるのだからこの子の欲求は理解できない。

 でも、その一挙一動をどうしようもなく見つめてしまう僕が居た。


「そんなに怖がらないでください」

「怖がっては、ないよ」


 見当違いな秋の推測に対し、首を横に振って答える。 

 開いては閉じる僅かに湿った口元。艶やかに輝いてるのに目を奪われた。──なんて言えるはずもない。

 相変わらず、このお姫様は他人の心を読み取るのが苦手らしい。


 らしいと言えばらしいだろうか。


 まぁ──とりあえず分かることと言えば。


 丁寧に築いていた心の城壁が呆気なく陥落したことだった。


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