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襲来

 ちりつく不快感を消したくて、僕は手持ち無沙汰をペン回しで誤魔化している。


「──空集合も含まれるので、答えは四つになる。ここ、間違えんなよー?」


 担任の先生が受け持つ数学の授業。学校が違うと進度も違うのか、既に習った範囲の授業は退屈で仕方がなかった。

 先生にとって見慣れた生徒が多いからか、言葉遣いも少し適当だ。けど、視線は意外と正直で、教卓から見て窓側の席へ行くことは少ない。

 主に窓側二列目に座る秋のせいだ。彼女の隣に座る僕も恩恵に与れるので大変助かっている。主にサボタージュ方面で。


 けど、肝心の秋の様子はなんだかおかしかった。恋煩いとも違うが、どこか先生の話に上の空だ。机に広げられたノートは授業が始まってから白紙のままで、仕事をもらえないシャーペンが困った様子で机の端を転がっている。


 そこらの善良な一般市民である僕はともかく、彼女は授業を適当に聞いたりする性分ではない。ということはそれ相応の理由があるのだろうとは推測が付く。

 朝一番からこの調子なせいで、周りの生徒も委縮しているし仮にも恋人である僕への視線も痛い。お前何かしたのか! と無言の圧力が襲ってくるし、一番口数の少ない小枝が鬼の形相でこちらをちらちら見てくるのはもっと疲れる。


 だからと言って休み時間に声をかけても、


「ごめんなさい。ちょっと思うところがあって」


 の一点張りである。

 仮にも彼氏なのだから教えて欲しいと言いたかったが、僕にそんな資格はないのだから言えるはずもないのだ。何より、昨日のことは後ろめたいと僕も思っている。


 実質豊野の物といっても過言ではない実豊町の空も、彼女の空模様を映し出すがごとく暗雲に覆われている。なんだか土臭い鼻先に付く匂いが今朝のテレビで見た雨予報を裏付けていた。


 黒板に目を向ければ秋が視界に入ってしまう。それが少し気になって僕は窓の外の暗雲を眺めることしか出来なかった。

 隣に座っているくせに皮肉にも恋人の顔を見ようとしない二人は恋愛における倦怠期のようだ。いつまで経っても晴れる気配のない空模様と同じで終わりは見えそうにない。


 そんな僕らに変わって、階下から聞こえてくる騒ぎ声が教室の雰囲気を動かした。


 二年生の僕らが二階。一階は後輩、つまり一年生たちがいる。

 窓から顔を覗かせて下を見れば、いつの間にか黒塗りの高級車が校門前に止まっていた。


 ──嫌な予感がした。どうやら暗雲はもっと厄介なもの隠してやがったらしい。


「なんだなんだ、うるさ──」


 こんな騒ぎ声があっては授業も進まない。授業の妨害に気分を害した先生がチョークを放り出して教室を出ていって声を失った。


 かつ、かつ、かつ。


 聞き慣れた音が階段を上って来る。一階は確かにうるさかったが、生徒の声はあっても先生の声がしなかった理由に遅れて気付いた。秋と同じ白木で出来た下駄の音。


 石畳ならもっと古風で優雅な音が鳴るだろう。

 分かっている現実逃避だ。こんな音を鳴らす人を僕は何人も知らない。


「……失礼するわね」


 黒を基調に金の差し色が入った着物。一目で秋の母親と分かる切れ目。髪が頭部で全て編み込まれている以外は秋と似ている。雰囲気だけが寝かせられたワインみたいに熟しているくせに、見た目は高校生の子を持つ親と思えないくらい若々しい。


 僕はよく知らないけれど、ざわついていた教室から一瞬で音が消え去ったのが何よりの証明だった。

 こんなことを出来る人間が何人も居てたまるものか。僕の知っている現実はそんな簡単に揺れ動かない。


「金重氷汰さんは──どなたかしら?」


 つかつかと飛びのいた先生に代わり黒板の前へ。

 まるで教師みたいに教卓に両手を付き、教室を舐めまわすが如く見渡してから口を開く。

 その動きは緩慢で、ちょいと押してやれば簡単に転んでしまいそうなくらい弱そうだ。


 だけど、そんな彼女の前にこの場の全員が言葉を、音を奪われている。


 上からものを見ることに慣れた仕草だった。


 ヘコヘコしながら後ろについている先生があまりにも小物に映る。

 彼女の言葉に歯向かうものは存在せず、言葉を取りあげられようとクラスメイト達の目線が僕へ集まって来た。


「……貴方ね」

「そうですが、何か」


 誰だこいつは。たかだか人間がどうしてしゅう様よりも人間の心を掌握できる?

 どうして同じ人間の口から言葉を発しているのに、空気全ての湿気を集めた重みがある? 気に食わない。実に気に食わない。


「都会の人ってみんなこうなの?」

「……何がですか」


 彼女から溢れ出る上位者の気質は実に秋と似ていた。

 蛙の子は蛙という言葉をいい意味でも悪い意味でも成立させている。

 秋も僕の恋人という身分を被らなければ、氷刃のような硬質さを持っている。

 だけど、あの女性が持つ氷は北極か南極にでもある氷点下で作られた完成形だった。


「──イイ目ね」

「……」

「先生?」

「は、ハイッ!?」


 声が裏返っていた。ビビりすぎだろう、犬の悲鳴じゃあるまいし。


「ちょっと、この子お借りしていいかしら」

「はい勿論です!」


 二つ返事だった。多分、早く去って欲しいなんてニュアンスも込められている。

 けど、内心の無礼を咎めるほど彼女も横暴ではなかった。──今のこれは遥かに横暴だけれども。


「先生の許可も貰えたことですし、氷汰君、行きましょうか」

「嫌ですけど」

「……あら」


 能面みたいな無表情な顔にひびが入った。

 窓際からほんの少し日が差した。頭の熱が煮えたぎっているのがよく分かる。

 けれど、冷静な部分が馬鹿なことは辞めろと警鐘を鳴らしていた。


「この地で豊野に逆らうことの意味。分かっていらっしゃって?」


 ちろ、と女性が下唇を舐める。美味しそうなものを目の前にしたそれは、自分が食物連鎖の頂点であることを疑わない振る舞いで、気に食わない。


「金重のやつ──馬鹿なのか?」

「なんで平気そうなの……」

「外から来たからだろ。おっかねぇ……」


 僕が無理やり割り込んだからか、彼女の掌握から離れ、少しずつ騒がしくなる教室。

 クラスメイトの顔が青くなっているのが視界で散りついた。


 遠くで鳴と小枝が心配そうにこちらを振り向くのも見えた。


 僕は現実に立っているはずだ。断じてこれは夢でない。


 だけど、僕の意識は本の読者と同じ傍観者の位置へスライドされた。

 これは昔からの防衛本能。理不尽で荒れてしまう自分の感情を抑えるための反射的行動だった。


「……だからなんですか」

「貴方も、世話になっている方に迷惑をかけたくないでしょう?」

「脅しですか」


 ここまでストレートに脅してくるなんて、夢にも思わなかった。

 現実だと重々承知していても──現実だからこそ簡単には信じられなかった。


「豊野の人間に勝てるとでも?」

「思いませんよ」


 ぶっきらぼうに言い切る。

 好奇心で歪んでいた豊野霞の眉がほんの少し下がる。ただそれだけの表情の変化が、遠くで見ていた先生の顔を大きく歪めた。

 納得させられてしまう。

 彼女はこの町の長だと。人を統べるべくして生まれた人間だと。

 武力も持たず、ただ己が圧力だけで教室という空間を制圧せしめた立ち振る舞い。


「金重!」


 怒鳴られる。力関係を明確に理解させられる。

 へらへらしているようにでも見えたのだろうか。

 そうだとしたら、やはり僕の意識と体は乖離してしまっている。平気なわけがあるものか。


「先生もああ言っておられることですし、早めに動きましょうか」


 そう言ったきり、もう豊野霞は口を開くことはなく、僕に背を向け教室を去っていく。

 いつも髪を下ろす秋と違い、普段見ない白いうなじに目が吸われた。


 緊張もなく、けれど崩れもしない凛とした後ろ姿はある種の傲慢に満ちていた。

 所詮は力のない人間をあざ笑っているかのような振る舞いは気に食わない。


 従う気などさらさらなかった。

 僕の防衛本能と身体の乖離は進みすぎている。

 水と油のように分離されてしまえばしばらくはもとに戻らない。


 怒鳴って来た先生がこちらを睨む。知ったことかと素知らぬふりをしてやれば、今度は頭を下げだした。


「……はぁ」


 席を立つ。テレビの名場面に出くわしたみたいにクラスメイトが「おー」と歓声を上げた。

 

 気に食わない。


 気に食わないけれど、だからと言って、あんな風に人が染め変えられるのを目にしてはいそうですかと頷けるほど、僕は横暴に寛容じゃない。


 そもそも、大瀬家に迷惑をかけるつもりもない。はなから僕に選択肢なんてなかったのだ。


「行ってくる」

「…………」


 もう今日は戻ることはなさそうなので、教科書を鞄に突っ込む。ぱっくりと口を開けた真新しい鞄に詰め終え、秋に挨拶を残した。


「おもしれーこと、なってんな」


 教室を出る直前、一番廊下側に近い鳴がやるせなさそうに言った。


「……まぁ、生きては帰ってこれるでしょ」

「娘さん下さいを言えるイイ機会だろ?」

「……うっさい」


 鳴の楽観的な言葉は今ばかりは救いだった。




 校舎を出れば高級車が校門前を鎮座している。ドア前に立ち、優雅に腰を折る召使いらしき男性に軽く頭を下げて後部座席乗り込めば、先に奥へ座っていた霞さんを見つけた。


「来てくれて助かるわ」

「どの口が言ってるんですか」

「この口よ」


 食えない人だ。

 胃をさすりながら視線を外に逃がせば景色が動き出そうとしていた。





 当事者たちがいなくなり、恐ろしい圧力から逃れた教室は一斉にざわめきだす。

 授業を受け持っていた教師は授業の再開を半ば諦め、教卓のパイプ椅子にどっしりと腰かけ深い息を吐いた。彼も彼で、クビの危機を逃れただけ大戦果と言っても過言ではない。


「……小枝」

「うん」


 教師の監視も薄れ、生徒たちが自分たちの友達同士で噂を立てる中、鳴がこっそり小枝の元へ近づいていた。彼の足元には大して教材の詰まっていないリュックが転がされていた。

 二つ返事で頷いた小枝も荷物を纏め終えている。二人の考えは一致していた。


「「せんせー! 今からしんどくなる予定なので早退します!」」


「は!? しんどくなるって──予定……? お、おいっ!?」


 ガタッ、と椅子から立ち上がり届きもしない手を伸ばす先生を無視して、二人が鞄を持って駆けだしていく。


「先行くから。秋も──ね?」


 去り際に残した小枝の言葉。秋が手にしたシャーペンを落とすには十分だった。


 早退者が校舎を抜け出していった後。


「え!? 氷汰せんぱいが連れ去られた!? おもし──ほっておけないからあたしも行くー!」

 

 万年プラマイゼロ風紀委員九原楓は、先日の赤ちゃん騒ぎの功績を投げ捨てて身に余るマイナス記録を一つ作り上げた。



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