山が動く
広々とした和室。畳二十枚分──二十畳の部屋はどうにも広すぎて落ち着きません。
旅館を思わせる広いローテーブルに並べられた食事の数々。
私、豊野秋には全てを食べられる食欲がありませんでした。
「……すみません。今日は食欲が」
そっと、箸置きに箸を戻して頭を下げます。
「儀式の疲れかしら? ですが──」
眉をひそめ、私を非難する目つき。対面で食事を取る女性こそ私の母、豊野霞です。
私と同じくらい長い髪を下ろすのではなく、丁寧に編み込んで纏めています。
「分かっています。百姓を統べる身として恥であること──重々承知です」
「理解しているならいいでしょう。幸いここには私達家族しか居ません。ですが、豊野の者として気落ちしている姿を他人に見せるのも許しません。何かあるのなら話しなさい」
「……」
私の中でもまだ言語化できていません。心の奥で、ほんの少し霧がかかったみたいな不快感で、たったそれだけに私は心が動かされている。
「家族なんだから、霞さんもピリピリしちゃだめだよー? 秋、何があったかお父さんとお母さんに教えて欲しいな」
童顔の父、豊野星真がにこにこ顔を崩さないまま尋ねてきます。
いつも穏やかな笑みを絶やさない父と、破顔という言葉が似合わない母は対照的です。
お父様の優しさは豊野家には不似合いだと思います。けれど、こういうときはお父様の優しさがじんと染みわたってしまうのです。
お風呂に浸かって力が抜けた私の体は、我慢を辞めて言葉を吐き出してしまいました。
「……二か月前のことです。私に恋人が出来ました」
「……え──?」
「へぇ。いいじゃないの」
お父様は雷に撃たれたみたいに固まって、お母様は愉快そうに口元を僅かに弧へ近づけました。
父親は娘の嫁入りを嘆くと言いますが、それは本当らしいです。お母様は、厳格ですけど、恋愛はむしろ推しています。統治者に許された少ない自由だからと、過去に言っていました。
「彼は今日の舞を見に来てくれました」
「……同学年の子かしら?」
「はい」
話を続けて、とお母様が促します。
「しゅう様と共に舞を踊り──しゅう様は白蝶となり、美里の地に豊穣を振りまきました」
「立派だったわね」
「はい。そして、彼は彼女の姿を目にしていました。──最初から、最後まで」
「──最初、から?」
そうです。それが彼の些細で異質な異常なのです。
何故か彼は神の姿を目視できます。本当は豊野の血を持つ者しか見えないはずです。
不思議ですが、このつまらない世界から連れ出してくれそうな外部の人間に私は夢を見ました。
いつ、どこで、だれが、何をしていたか。
事細かに伝わり切ってしまう閉鎖的な町。
その中で、豊野の力は良くも悪くも町全体に知れ渡っている。誰もが私を恐れ敬う狭い世界。小さい頃から好きではありませんでした。
ですが、嫌いではないのです。──嫌いと言ってはならないのです。
一般的な家庭より裕福な暮らしもさせてもらっている身です。そして、その一般家庭の支えの元、成り立っている生活です。まるで荘園のようだと時に思いますが、あながち間違いでないでしょう。
……だから、私は豊野の人間であることから逃れられない。
人生をマラソンだとして、豊野の跡継ぎは避けられないチェックポイントで折り返し地点。人生の終着点が実豊の地でなくとも逃げ切れないのです。
これは物理的な話ではありません。精神的な話です。
私の責任感。肩に寄りかかって来る何十、何百をも超える命。
その重みに十分な教育を施された私は、耐えられてしまうのです。
いっそ、無能であればよかったのに。そう嘆いたこともあります。
勿論、それを表に出すこともしません。上に立つ者は下に不安を抱かせてはならないからです。
子供から大人で味覚が変わるように、嫌いなものが好きになることもありません。嫌なものは嫌です。
だから──なるべく早く跡継ぎを作ろうと考えました。
ええ……最低でしょう、最悪でしょう。ですが、それだけは私に許された正当性のある自由です。
幸いにも私は女としてそれなりの魅力を持った人間という自負があります。
だから、落とそうと思えば落とせるんじゃないか──なんて根拠の薄い自信があったのです。
「……はい。最初から、です」
「うんと? 僕にはしゅう様の姿が分からないけど、その子は見えているってことかな?」
「はい」
「……ふふ。面白いわね、その子」
お母様がちろりと舌を出しました。獲物を目の前にした蛇のようです。
面白そうなものを見つけた時、お母様はいつもこの仕草をします。時間にすれば一瞬ですし、下唇を舐めるようにしか見えません。だからこの仕草を知っている人間も僅かです。
「……霞さん、あんまりその子に迷惑かけちゃだめだよ?」
けれど、蠱惑的な蛇に捕まった身のお父様には思うところがあるようで、苦笑を隠しもしません。母は良い意味で人の上に立つことが向いている人です。
気まぐれで、突拍子もないことをしでかそうとする人ですけど、物怖じしない振る舞いはそれ以上のカリスマがあります。
「いえいえ、興味が湧いただけですから」
「……その言葉、僕はもう信用できないよ」
恐らく、お父様とお母様が出会った頃、散々振り回されていたのでしょう。呆れ半分、懐かしさ半分といった風に、遠い目で肩を竦めます。何やら楽しそうな話らしいですけど、
お父様は苦笑するだけで何も言いませんし、お母様はないしょ、と言うだけです。
おかげさまで私は俗世に疎くなってしまいました。……氷汰には一ミリも関係ないなんて言われたので一度絞めています。彼の鳴き声はちょっと私に毒で、もっと虐めてしまいたくなるのが厄介なのです。
こんな話をすれば、脳裏に氷汰がおろおろしているのが目に浮かびました。……危ない、口元が緩んでしまいます。
「でも、興味が湧いたのは本当だもの。秋、聞かせてちょうだい? その人はどんな人なの?」
「……子供と大人を、足して二で割った人──でしょうか」
「童心を忘れていない?」
私は首を横に振ります。彼はそういう人ではありません。多分、童心を持っていない──もしくは、どこかに忘れて来た人みたいです。でも……
「……時々、思い出したみたいに目を輝かせるんです。しゅう様に出会った時がそうでした。彼はいつも、しゅう様を目にした時は愛しい人を見つけたみたいに、感情を表に出すのです」
「……それで?」
お母様がそっと目を細めます。あれは何かを考えている顔で、同時にある種の推測が完成している時の顔です。きっと、私の言いたいことが分かったのだと思います。
聞き返しているのは、パズルの完成図と実物を見比べる確認作業だからでしょう。
「氷汰は私に惚れていません。ですが、しゅう様には惚れ込んでいるように見えるのです。」
「……へぇ」
細められた目の光から温度が消えました。多分、怒っています。
「告白はどちらから?」
「私からです」
「彼の返事は」
「即断即決、快諾でした」
「……そうですか」
「霞さん? 霞さん? 落ち着いてね? 学校に乗り込むとか駄目だよ?」
「……星真さん、私はまだ何も言ってませんよ?」
にっこりと笑うお母様。普段お暇を出してる表情筋を働かせている時点で、嫌な予感が確信に変わりました。
「ほらっ! その彼氏さんは神様に興奮しただけなんだってきっと。恋愛対象と推し? は違うって言うでしょ?」
お父様も同じことを考えていたみたいで、わたわたと慌てながらお母様を宥めに入ります。ですが、豊野の人間は他の人にとやかく言われようと変わりません。
私自身、重々承知していて──
「知りません。恋人がいるくせに他の女に目移りするような人が秋の彼氏にふさわしいと?」
「……それはふさわしくないね」
折れるの早くないですかお父様!?
「でしょう?」
お父様が折れたのを見て満足げに笑うお母様。こうなってしまえばお母様は止まりません。
というより、止められる人がいません。お父様が唯一のストッパーなのですから。
お母様が何をするか想像もつきません。
ですが……明日が不安で仕方ありませんでした。




