悪夢の質問
僕は本の世界が好きだった。
紙を好んでいたわけではない。物理的な存在がない電子書籍でも良かった。
僕は文字列を追うのが好きだった。
活字が好きなのではない。身近な舞台なのに僕の知らない別世界みたいで、どこぞのアリスみたくぽっかりと現れる世界を垣間見るのが好きだった。
僕は読書が好きだった。
本だけが好みだったわけでない。空想に触れるためには本が最も身近で、一番最初に触れた異世界への扉だったから。
だから僕は、現実離れした空想が好きだった。
だから僕、金重氷汰は──
「一目惚れしました──どうか、付き合ってくださいませんか?」
それはクリスマスだとかのイベントでもなく、ただの平日。
夏休みが明け、秋が見えて来たのに照り付ける残暑を嘆いていた頃。
祭りの賑やかさもない木漏れ日の下。和服女子の告白という非現実的光景。
そこで垣間見た扉に、つい頷いてしまった。
*
「お口、開けてくださらないのですか?」
お昼休み。各々が授業から一時の解放を楽しみ、昼食と談笑を楽しむ時間。
僕も例に漏れず机を向き合わせ、恋人である和服の少女と昼食を取っている。
目の前には出汁巻き卵を掴んだ漆塗りの箸が突き出されている。ほんのり醤油の効いた香りが鼻をくすぐる。小首を傾げる箸の持ち主こと、長い黒髪の美少女。垂れ目もあって遠くから見る分には大和撫子と評するのが似合いの人物だ。
それだけ聞けば恋人に「あーん」をされている、幸せな光景のはずだった。
「もう少し場所を……人前なんですよこれ」
「いいじゃありませんか。恋人が仲睦まじい姿を見せるのにおかしなことでも?」
目の前の声以外で耳に届く、ひそひそとした声。周囲のクラスメイト達の野次のようなものだ。
……誰だまたやってるとか言ったやつ。
僕が二か月前に転校してきた実豊町唯一の高校で、二年B組の教室。
同じく昼休みを享受するクラスメイト達も当然ここで昼食を取っている。別にピエロになったつもりでも、動物園のパンダになったつもりもないけれど、僕たちは見世物と同義だった。
「──ありますか?」
「……何も」
紺を基調とした物静かな和服の裾。そこから覗く四肢は華奢なのに、ムキムキのマッチョマンから凄まれたような圧力が僕を閉口させる。
僕へと向けられる黒塗りの箸が銃口にすら見えて来た。出汁巻き卵が入っていたお弁当──またの名を重箱はさしずめマガジンと呼ぶべきなのか。まず、お弁当なのに重箱とはこれいかに。
お前は三が日でしか出番がないやつだろう。
……ともかく、これ以上の抵抗は彼女の怒りを買うだけ。大人しく敗北を認めて口を開ける。
「あ~ん」
「ん」
卵が口へと入れられ、咀嚼する。口の中で、まだほんのりと熱を保っただし巻き卵が綻ぶように口の中で溶ける。とても、とても悔しいが、僕が言えることは一つ。
「どうですか?」
「うん、美味しい」
誠に美味しかった。いきなり告白された二か月前から料理が出来る子だったのだから、僕の好きな味を知られてしまえば胃袋を掴まれたのも当然である。……勝負をしているわけでもないけれど、勝てる気がしない。
「──けど秋さん、もう一つお箸をいただければ嬉しいかなぁと思うんですけど……」
「私と氷汰なら一膳で十分です」
僕にだって羞恥心はある。流石にクラスメイトの耳目を集めながら恋人に食べさせてもらう生活を続けられるほど僕の心臓に毛は生えていない。だから、お昼ご飯くらいは自力で食べさせて欲しいという願望を伝え、あっさりと切り捨てられる。一息も間のない一刀両断だった。
「そうですか……」
「はい。──次は……鮭の切り身なんてどうでしょう。朝の市場からの直送品ですよ」
大和撫子にふさわしい振る舞いだが、物言いには有無を言わせない圧力が垣間見える。それは彼女の立場の裏返しだ。
この町を牛耳っていると言っても過言ではない豊野家の箱入り娘、豊野秋。
僕の恋人でもある。
クラスメイト達が下手に騒がずひそひそ囁くに留まっているのは、僕らのやりとりに慣れたと言うのもある。けどそれ以上に、彼女の機嫌を下手に損ねれば暮らすことも難しくなるからだ。
転職だとか、フリーだとか、胡散臭いと思える話も転がる世の中で、就活の概念すらなく、豊野家が仕事を割り振る閉じた世界。勿論、豊野家が何もかも全てを取り仕切っているわけではないが、一般家庭程度の仕事を干すくらいなら簡単に出来てしまう。
それほどまでに豊野家の力は凄まじい。……町長はどうした町長は。
「……あのですね」
弁当を作ってくれるのは大変ありがたい限りなのだが、このままでは昼休みが終わってもお腹が満たされない。
……諦めて目の前に突き出されるものを口に出来ればどれだけ幸せだろうか。
「色気より食い気なんだろうさ。──ほい、袋に割り箸二本あったからやるよ」
僕の肩に救いの手を置いてくれた金髪男──信藤鳴が箸を渡してくれた。
「……鳴、私達の時間を邪魔するおつもりですか?」
「いやいや、そうじゃねぇさ」
鳴が恐れ多いと首を振る。僕とはベッドの下に隠す本の話題で議論を交わす仲だが、そんな彼も彼女の前では言葉を選ぶ。
「ほら、秋は氷汰を満たしてやりてぇって話だろ? けど昼休みも終わっちまうし、このままじゃ氷汰が餓死しちまう」
「一理あります。が、そんなものは氷汰が私のあーんを受け入れれば済む話です」
「そりゃそうだ」
「おい納得しないでくれ」
僕の助け舟は泥船らしい。それか船底に穴でも開いているのか、浸水していて沈没寸前だ。非難の視線で何とかしてくれと訴えれば、鳴は苦笑しながら後ろの女子に視線を送った。助け舟が助け舟を求めてどうする。
「甘味が多すぎることが難点だな。チーズはダブルでもいいけど、毎度こんなのを見せられる身にもなってくれや。な、小枝」
「男子高校生のメンタリティは貧弱。周囲の目に耐えられない──あ、ダブル甘味バーガーなら欲しい」
「なるほど、流石は小枝です。 男の子の幼馴染を持つだけありますね」
「……流石か? あと甘味バーガーってなに」
佳介の後ろからひょいと顔を出し、後ろで束ねた髪を揺らしてさらりと毒を吐いたのは、彼の幼馴染である久原小枝。すらりとした長身から放たれる遠慮のない冷たい言葉は、一部で罵られたいと支持を集めているとかなんとか。だけど、僕にMの質はないのでご遠慮願いたいところ。
「死体蹴りもやめて欲しいんですけどね」
「豊野家の娘にそれを願う方が馬鹿だよ諦めろ」
「そういうことです。もとより私も好き好んで虐めるつもりもありません。業腹ですが、箸を許可しましょう」
「……ははー」
町の外から来た身としては、権力主義の世界になれていないのもあって、理解が落ち着いていない。けれど、そんな生活を二ヶ月もすればオトコノコのプライドもへし折れ、四肢を素直に投げうって平服出来るようになっていた。
……こんな順応が出来る自分自身に心底嘆きたい。
「それはそれとして、聞かねばならないことがあります」
「……なに?」
僕はその言葉に思わず身構える。
思い出されるぐらいなら、甲斐甲斐しすぎる介護を大人しく受けておくべきだった。
「──赤子とは、どうやって作るのですか?」
かち、かち。かち、かち。
この場全ての人間が凍り付く。唯一の無機物、掛け時計の音だけが鼓動を許されていた。
時を刻む音は時限爆弾のようで。決定的に無知を示す言葉は、皆の注目を集める豊野家の姫が言ったからこそ、教室の全員が耳にしてしまった。
そして、爆発の被害を受けた者が各々の昼食を犠牲にする。
「ぶふぉ!」
「ぶはぁっ!?」
「あだッ!!」
貴重な昼飯を噴き出す者。喉を潤す水で、床を潤してしまった者。なまじ、椅子をシーソー代わりに遊んでいたせいで、椅子ごと横転、鈍い音を響かせた者。
教室は阿鼻叫喚の大惨事に見舞われる。無理もない。
彼女の言葉が予測出来ていた僕だって、神頼みの鉛筆ころころよろしく、割り箸を放り投げていた。
「な、なに赤ちゃんとか言ってんすか秋さんよぉ!?」
「……無知も度が過ぎると困る。そこまでいくと甘味より苦味」
既に昼食を食べ終えていたおかげで軽症の鳴が、見逃せない発言にくらいつく。
それに同意する小枝も、今ばかりは硬い表情を崩し、噴き出すのを堪えていた。
「無知なのは否定できません。何しろ私の知識は偏りが多いものですから。──だからこそ尋ねているのですよ」
経営学なり、帝王学なり。この年で習わない学問を詰め込まれた箱入り娘。
代わりとばかりに情操教育のじの字も受けていない。だからといって馬鹿正直に話すわけにもいかないし、ちょっと口にするのに色々抵抗がある。
「ほ、ほら、前も言った通りコウノトリが赤ちゃんを──」
「私を、馬鹿にしないでくれますか?」
「──ひぃ!?」
びゅん、と銀の刃と冷えた空気が鼻先を掠める。あまりにも流麗な薙刀だった。
刃の出所は和服の裾。
裾如きで薙刀が収まっているのも意味が分からないし、それを躊躇なく振り回すのは考えなくても笑えない。豊野家の教育係さんには、経営学の前に是非倫理学を叩き込んで欲しかった。
前回押し通したコウノトリ論法を使おうにも、地頭が良い彼女に二度も通じるはずもなく。……いや、むしろ前は何故通じたのか。やはり馬鹿──
「ひょわッ!?」
「……何か、失礼なことを考えていませんか?」
再び銀色の光が煌めく。冷たい風を感じたと思えば、はらりと髪の毛が落ち葉みたいにひらひら目の前を通過していった。どういうことでしょうか、まだ会ったこともない秋のお母さん。お宅の娘さんは脅しで人の髪を斬る方だったんですか……。
「いやいやいや! 純粋だなぁって!」
「……そうですか」
苦し紛れの弁解に納得したのか、秋がくるりと薙刀を回し、手元へ引き寄せる。そして、和服の中へひっこめた。彼女の和服は某猫型ロボット並のポケットらしい。
「では許しましょう。早く赤子の作り方について──」
やっぱり、諦めてないらしい。がっくりと肩を落とし、いつもの通り順応の姿勢を作り始める。
「こんな真昼間から卑猥な事件現場はここですかっ!!!」
そんな僕の失敗を拭おう言わんばかりに、切羽詰まった声が致命的な質問を断ち切ってくれた。