歳を取らない令嬢は、大切な人に裏切られました。
『長い話になるけれど、いいかしら』
リリアーズはそう断って、静かに話し始めた。
今からおよそ600年前。
リリアーズ=エトントレインは、侯爵令嬢としてこの世に生を享けた。
『エトントレイン? 王妃を輩出しているよな、確か』
『そうね、王妃が出た頃家からはもう離れていたから、よくわからないけれど。それにしてもロディ、よく知っているわね。カーナの生まれた時代にはもう断絶した家なのに』
『ああ……まあな。王国史にはちょっと詳しいんだ』
侯爵家のひとり娘として、強く賢明な父、美しく優しい母、朗らかで聡明な兄に蝶よ花よと育てられたリリアーズは10代前半までなんの問題もなく、至極健康に成長してきた。が、17歳になる頃にはとあることに悩まされるようになった。
「お嬢様! 朝ですよ、起きてください!」
「んん……」
17歳になったリリアーズの朝は、専属のメイドとして幼い頃から共に育ってきたエステルの声で始まるのが常だった。
エステルはリリアーズが生まれた日、屋敷の前に捨てられていたのだという。本来なら孤児院に引き渡すところを、子どもが生まれためでたい日であるから、ということで屋敷で引き取ることにしたのだとか。
促されて身を起こし、伸びをすると、鏡の前に座る。すぐにエステルが髪を梳かし始めるのをぼんやりと見つめた。
くすんだ赤い色の髪にモスグリーンの瞳。この国ではさして珍しくもない色合いだが、リリアーズはエステルの色をとても気に入っていた。温かな色だし、家族の誰ともなぜか異なる色合いの自分とは違う。染みひとつない月光のような銀の髪にエメラルドのような明るい緑の瞳は気に入ってはいるが、父も母も兄もそんな色は持っていない。おそらく強い先祖返りだろうと言われているが、なんとなく仲間外れのような気分にさせられる。
そうこうしているうちに支度が済み、とある日課を終えるとため息を吐いて、リリアーズは朝食の席を家族と共にするために立った。
「おはようございます、お父様、お母様、お兄様」
「おはよう、リリアーズ」
席につくと家族からの微笑みを受ける。にこりと笑い返したのも束の間、すぐに父から問いを向けられたリリアーズはその事実を思い気分を落とした。
「それでその……リリアーズの身長は、どうだったんだ。伸びていたのか?」
「……いいえ、お父様。今日も以前と変わらないままでしたわ」
「そうか……」
リリアーズの答えに食卓に重い沈黙が落ちる。
リリアーズの背丈は、13歳の頃からなにも変わっていなかった。150センチ足らずのそれがなぜ問題なのかというと。
「これでは社交界デビューしづらいわね……」
母がため息を吐いた通りだ。
この国の人間は総じて体格がいい方で、平均身長も高い。社交界では当然のことながらダンスをする必要があるわけで、理想の身長差というものがある。男性の平均身長からすれば女性の理想の身長はだいたい160センチほど。もちろん社交界には小柄な女性もいないわけではないが、壁の花になりがちなのが実情だ。
それでは情報交換の場としても機能する社交界にいる意味がない。これから背丈が伸びることに一縷の望みをかけて、14〜17歳の間に済ませる社交界デビューをリリアーズはギリギリまで遅らせているのだった。
だがリリアーズは思うのだ。
(なんだか、身長だけでなくて、すべて……顔も、身体つきも、なにもかもほとんど成長していない気がするわ)
17歳という年齢でありながら見た目は13歳のままのリリアーズは、いつもの疑問を頭から追い出して朝食を進めるのだった。
それから5年が経った。
相変わらずリリアーズの背丈は伸びず、見た目もほとんど変わらないままだったが、社交界に出ないわけにもいかない。遅いデビューを済ませると、美しい見た目に加え有力な侯爵家のひとり娘ということもあり、壁の花であっても幸いにもすぐに婚約の申し込みが舞い込んできた。
その中から然るべき相手を選び婚約を整え、結婚をひと月後に控えたある日のこと。
リリアーズは婚約者に呼び出された。
「婚約を解消してほしい」
「……え」
思いもよらない申し出だった。婚約者との仲は良好で、政略結婚であっても、胸を焼くような恋はできなくとも、心を温めてくれる愛はもっている。そんな関係だった。既に、大切な人の域にいた彼からの突然の言葉。
「……なぜ、と問うてもよろしいですか」
「噂が立っているんだ。僕に関しての」
「噂、ですか」
「ああ。僕が小児性愛者だという噂がね」
そのひと言でだいたいの事情は察せられた。
22歳であっても幼い見た目の変わらないリリアーズ。数多の令嬢の中からわざわざ選ぶには少々不可解だ。なぜなのか、と噂が立ってもおかしくはない。そして人々の間でもたらされた答えが「婚約者の小児性愛者説」なのだろう。
「出会ってから4年が経つけれど、君はまるで歳を取らないようだ。実のところを言うと、それも奇妙だと噂されているんだよ。僕が己の欲を満たすために君になにか薬でも与えているんじゃないのかとね。ああ、誤解はしないで欲しい、君自身に問題があるわけではない。君は完璧な淑女だ。けれどわかってくれるね? 僕にとってこの噂は大変不名誉なんだ」
畳み掛けるように話し終えると、婚約者は──婚約者だった彼はさっさと席を立った。俯くリリアーズの横を通り抜けた彼が廊下に出ていき、パタン、と彼の屋敷の応接室の立派なドアが閉じられる。
ぎゅっと膝の上の手で拳を作る。手のひらに爪が食い込むほどに強く強く握り締めて、感情の高ぶりを抑えるけれど、家族になるのだと思っていた人からの裏切りとも言える言葉はリリアーズに思った以上にダメージを与えていた。
知らず涙が零れ落ちた、その瞬間だった。
リリアーズの周りに、真っ赤な炎が具現化したのは。
それはあっという間に燃え広がり、応接室中を舐め尽くした。不意のことで悲鳴を上げる間もない。やっとのことで人を呼ぶが果たして届いているのか。突如火の粉が舞い上がり、リリアーズの上に落ちてきた。咄嗟に腕で頭を庇う──けれど気がついた。なぜだろうか。熱くない。
「お嬢様!? きゃあああ!! っ、熱い!」
バタバタと足音がして、従者の待合室で待っていたはずのエステルが駆け込んできた。炎の真ん中で立ち尽くす主を見て悲鳴を上げた彼女は、慌てて炎の中を突っ切ろうとした。が、当然のことながら炎の熱さに阻まれる。泣きながらお嬢様、お嬢様と呼ぶエステルにぼうっとしていたリリアーズははっとして廊下へじりじりと出ていった。その途中で触れた炎もやはり熱くない。エステルは熱いと言っていたからリリアーズだけなのか。
エステルに向かって倒れ込む頃には屋敷の者たちも集まってきていた。すぐに消火活動が始まったが、なかなか炎は消えない。やがて火は隣室や廊下も覆い始めた。素人にはこれ以上は危険だ。すぐに屋敷の外へ全員が退避した。
「どういうことだ、リリアーズ! なにがあった!?」
婚約者だった彼が真っ青になって問い詰めてくるけれど、リリアーズにもなにがなんだかわからない。突然火が現れたのだ、と伝えてみるが、混乱の状況下では上手く伝わらない。
まもなく王都の警備隊が到着し、消火活動を行ったが、屋敷はすべて燃え落ちたのだった。
次回は8月になる予定です。