傷ついた兄とその妹たちのもとに、片眼鏡の持ち主が帰ってきました。
キラリと煌めいたその光は、傷を負った主人を前にして次第に平静を失いつつある使用人たちの喧騒の中でもリリアーズの脳裏にひどく焼き付いて離れなかった。
(そんな、まさか、でも……)
おかしいところはあった。いくらリリアーズたちが明日出発する準備の為とはいえ、どうして執事であり管理人でもある彼が──この屋敷の最高責任者である彼が、主であるリリアーズたちエトントレイン家の者が屋敷にいるその夜に屋敷を空けたのだろうか。昨日までに支度が間に合わなかったのだとしても、今日の日中に準備をするべきだ。リリアーズは優秀な使用人とはそうあるべきものだと教えられたし、侯爵家に仕える使用人たちは揃って優秀だ。その筆頭ともいえる彼が、ギリギリまで仕事を残しておくようなミスをするだろうか。否。おそらくしない。
ではなぜ彼は今夜屋敷から姿を消していたのだろうか。なぜ片眼鏡の輝きは、図書室の内に──賊がいた図書室の内側にあったのだろうか。
その答えは──。
「……──様。……嬢様。お嬢様!」
「……え……、……あ……」
「お嬢様、しっかりなさってください! もう少しで西棟の玄関扉を壊せそうだって話です。そこの扉も木製だから今壊せるものを取りに行ってます、レイ様はきっと……きっと、大丈夫ですから!」
「……ぁ……」
真っ青な顔をしたエステルに両肩を掴まれ揺さぶられる。どうやら突っ立っていたのを、兄が怪我をしたことによるショックのせいだと思われたらしい。
「お、落ち着いてエステル……大丈夫、私は大丈夫よ」
「……本当ですか?」
「本当よ。今はとにかく、お兄様を助ける方法を考えなくちゃ」
おそらく自分よりも顔色の悪いエステルを間近に見たせいか、それとも片眼鏡の存在に気を取られたせいか、リリアーズは兄の怪我という事態に直面したにしては比較的落ち着いていられるように思えた。
すぐさま近くで狼狽えていた従僕の1人に町の詰所にいるはずの騎士へ連絡するよう告げる。転げるように彼が出て行った時、リリアーズはハッとした。
片眼鏡の輝きを見たことを、早くエステルに伝えておかなくては。不審な人物を見たことを早く言わなかったせいで兄は怪我した、これも早く言っておかなくては後悔するかもしれない。
「エステルあのね──」
慌ててエステルに向き直った時だった。
「こんな夜更けに、いったいなんの騒ぎです?」
──優秀な使用人は大きな音を立てて歩いてはならない。そんなマナーに忠実に、静かで律動的な足音を小さく響かせながら、この場にそぐわぬほど冷静な声が喧騒を貫く。
知的な片眼鏡がトレードマークのこの屋敷の頼れる最高責任者の存在に、その場の誰もがほっとした顔をした──ただ1人、リリアーズを除いては。
「……あなた……」
「どうか致しましたか、お嬢様?」
知らず顔を引き攣らせたリリアーズに執事が不思議そうな視線を向ける。
「あの、鍵! 扉の鍵を、マスターキーを、早くお願いします!」
「マスターキーですか。構いませんが」
そんな彼に駆け寄った使用人の1人がマスターキーを借り受けると、ガチャガチャと音を立てて扉を解錠する。扉を開いた瞬間、もたれかかって倒れていたらしき兄が倒れ込んできた。その顔は血の気が引ききって、青を通り越して紙のように白い。それとは対照的に、その胸もとは鮮血が散っている。その息はひどく弱々しい。メイドたちから悲鳴が上がった。従僕たちも息を呑んでいる。
「お兄、様……!」
「レイ様!」
そんな中駆け寄ると、血が衣服に付くのも構わずに兄の頭の隣に膝をつく。後を追うようにエステルも駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか……!」
兄の応えはない。助けようにも怪我を治す手段など知らない。ただ血を止めようと手近な布を探すと、騒動の中で誰かが落としたハンカチがあった。だがその小さな布では到底足りない。自分の上着とそれを合わせて胸の傷を抑え込んだ。だが広範囲に渡る傷からは絶えず血が溢れてくる。エステルが代わると主張するので、リリアーズは兄の冷えた手を祈るように握り締めた。
そのエステルの後ろから姿を現したのは執事である。いまだ誰も状況を説明していないらしい。困惑したような声を上げる。
「レイ様? ……これはいったいどういうことなのですか」
音もなく視界に現れた彼にリリアーズは思わずひゅっと息を呑んだ。驚愕の表情で眉を下げ悲しげに兄を見つめるその顔は昔と変わらず慈悲に満ちているようにも見える。だが次の瞬間。
「きゃっ……!?」
「エステル!」
とん、と執事が必死に止血をするエステルの肩を後方に押した。止血に気を取られていたエステルは呆気なく尻餅をついて転ぶ。咄嗟に伸ばしたリリアーズの手は、皺だらけの厚い手のひらに掴まれた。
「いったいどういうことなのですか。いまだ生きているなんて」
「……え?」
「いけません、お嬢様。なぜ止血などするのです。せっかく、あと少しのところまで来ているというのに」
「な……に、を、言って……」
至っていつもと変わらぬ穏やかな調子で紡がれる言葉は、まるで──否、はっきりと、兄の命を繋ぐなと言っていて。
まさかそんなはずは、彼がまさか、と叫ぶ自分も確かにいる。けれど。
「……やっぱり、あれはあなた……だったのね」
「おや。気づいておいででしたか」
キッと睨みつけ低く呟くとあっさりと肯定の言葉が返ってきた。それは目の前の執事が──幼少の頃からずっと信頼していた執事が、大切な兄を傷つけるのに加担したという事実。
「今夜は出かけているように装っていただけなのね。そして知らないうちにお兄様を閉じ込めたあなたは西棟に賊を手引きして、お兄様を傷つけた」
「ふふ。ずいぶん聡明に成長されたようで、僭越ながら嬉しく存じます。ですが……」
その手に光るものを認めて、さらにその切っ先が己の方を向いているのを見て、再び息を呑む。
「聡すぎては身を滅ぼされますよ。覚えて頂ければ幸いでございます。もっとも、それを使う機会が今後あるかについては保証いたしませんが」
ぐ、と刃を近づけられて、うまく息が吸えない。




