人を愛さないと決めた魔女が拾ったのは、記憶喪失の少女でした。
投稿した短編を長編に改稿したものです。
まだそこまで百合っぽくはないです。
この世界には“魔女”がいる。
人を愛し、人を救い、妙なる術を操る“魔女”。
永遠の時を生きる“魔女”。
──もう二度と人を愛することなど、ないと思っていた。
恋人、友人、家族のように慕っていた人々。
愛していた人々はみな、数百年のうちに自分一人を置いていってしまった。
ずっと自分のそばにいてくれるものはなにもなかった。愛したものを失う苦しみをもう一度味わうくらいなら、ただひとり森の中で未来永劫生きていく方が良いと。
そう思っていた。
リリアーズは魔女だ。それも世界に12人しかいない“天生の魔女”、そのひとり。リリアーズは世界を守護する存在であり、人々を救う存在であるのだ。
「……ぅ……」
だから、ある日薬草を摘みに歩いていた森の中で、小さく呻いているぼろぼろの少女を見つけたなら、人を愛さないと決めているリリアーズは、助けなくてはならないのだ。
──……なにか、いい匂いがする。
暗闇の中でふわふわとさまよっていた意識を明瞭に引き上げたのは、食事の匂い。
寝かされていた少女はぱちりと目を覚まし、匂いのもとを探すためにぼんやりと部屋の中を見回した。
視界に映るのは知らない部屋。清潔そうだけれど、ドライフラワーらしきものが大量に吊り下げられていたり、これまた大量の書物が散らばっていたりと雑然とした印象だ。少なくとも悪い場所ではなさそうだと、少女は重たい身体を持ち上げた。
「あ、起きたのね」
不意に声をかけられる。声の主を見ると、スープ皿をふたつ手にした女性が立っていた。
歳の頃は20代前半くらいだろうか。銀の長い髪には、一筋だけ黒髪が混じっている。こちらを見つめる瞳は猫のようなアーモンド型で、不思議な真紅の色合いだった。少女がなにも言わずにじっと女性を見つめていると、女性は苦笑した。
「まあ警戒しないで。お腹は空いてる? 食べられそうなら食べなさい」
近寄ってきた女性が差し出したスープ皿をおずおずと受け取る。いい匂いのもとはこれだったのだろう。小さく刻まれた野菜が入ったスープを前にして、胃が素直に空腹を音で訴えた。
だが、大丈夫なのだろうか、とも心配になる。知らない人からもらったものには気をつけろと、散々言われていたような気がするのに。
じっと空腹を我慢してスープを見つめる。見てなにがわかるでもないのだが、なにか変なところはないだろうか、と観察していると、再び女性が笑った気配がした。
「毒の類は入れてないから大丈夫よ。少し熱があったみたいだから、念の為熱冷ましの薬は入れてあるけれどね」
熱。自分は病気なのだろうか。そういえば身体のあちこちが痛いし、ひどい倦怠感もある。
疑問は残るが、そろそろ空腹が限界だ。少女は思い切って温かなスープに口をつけた。
「……おいしい」
ひとくち口に含んで飲み込めば、ぽろりと口から言葉がこぼれる。
「そう、それは良かっ……って、どうして泣いてるの、薬が変な味だった?」
女性が慌てている。どうやら言葉と一緒に涙もこぼれてしまったらしい。頬が濡れた感触がする。ふるふると首を振り、否定の意を伝えた。
「あったかい、から……」
「……安心した?」
「うん」
「そう」
ほっとしたように女性は少女が寝かされているベッドに腰掛け、自分もスープを食べ始めた。
「たぶんあなた、しばらくろくに食べていなかったんだと思うわ。お腹が弱ってると思うから、ゆっくり食べなさいね」
こくりと頷き、言われた通りにスープを少しずつ飲み下していく。
少女が食べ終えると女性は皿を受け取って、汲み置きの水場へと持っていく。皿を洗って拭いて棚に戻してから女性は戻ってきた。
「さて。あなた、どうしてここにいるのかはわかる?」
問いかけに首を振る。ここは知らない場所だ。女性が誰かも知らないし、なぜここにいるのかもわからない。
「あなたはここの近くの崖の下で行き倒れてたのよ。あちこち小さい怪我もしてるから、崖から落ちたんじゃないかと思うのだけれど……」
「……崖?」
「ええ、そうよ。覚えてない?」
「……うん……」
どうにも記憶がぼんやりしていて、形が掴めない。確かにひどく痛くて怖い思いをした感覚はあるのだけれど。
そう言うと、女性はもしかして、とこわごわ問うてくる。
「……その前のことは? どこから来たかとか、どうして崖の上に行ったのかとか……」
少女は少し考えて──愕然とした。
なにもわからなかったのだ。自分がどこから来たのかも、なにものなのかも、すべて。確かに記憶はそこにあるはずなのだが、すべて真っ白にかき消されたようになにも見えない。
「……覚えてないのね……崖から落ちたショックで忘れちゃったのかしら」
女性は少女の様子を見て困り果てたように呟く。当然だ。自らがどこから来たのかわからなければ、帰ることができないのだから。
少女は唐突に不安感に襲われた。自分のことが自分でなにもわからないというのはまだ幼い少女をかなり恐ろしい心地にさせた。これからどうしたらいいのかわからない。頼れる人も、おそらくいたであろう家族とも会えないのだ。──もしかしたら、もとから家族などいなかったのかもしれないが。それすらも、少女にはわからないのだった。
じわりと涙が溢れてくる。そんな少女の頭を女性はそっと撫でる。
「泣かないで。きっと大丈夫よ、町に行って知っている人がいないか探してみましょう。それまではここにいていいから。自分の名前だけでもわからないかしら?」
「え、えと……」
空白の中から必死に名前を探り出す。誰か、温かな声で自分を呼んでくれた人がいた、ような──。
「……シル、フィ?」
「シルフィ? シルフィっていう名前なの?」
「わからない、けど……そう呼ばれてた気がするの」
『──シルフィ、オレの可愛い──……』
誰かとても大好きな──大好きだった人が、呼んでいる気がした。
「わかったわ。じゃあシルフィ、少しの間よろしくね」
「うん。……助けてくれて、ありがとう、お姉さん」
少女がまだお礼を言っていなかったことに気がつきそう言うと、女性は瞳を瞬かせて笑った。
「お姉さん、か。ふふ、そういえばまだ自己紹介をしていなかったわね」
いたずらっぽく笑った彼女は、口に人差し指を当てて驚くべき事実を告げた。
「私はリリアーズ=エトントレイン。600歳よ。まあ、正確な歳は覚えていないんだけれどね。だから、本当はお姉さんじゃなくておばあさんなのよ」
とてもそうは見えない美貌の女性を前にして目を見開く少女に、女性はふふふと軽やかに笑ったのだった。
(記憶喪失、ね……)
空腹を満たし、疲れもあってすうすうと眠っている少女──シルフィを見ながら、リリアーズはお手製のココアを手にぼんやりと思考に耽る。
(記憶がないのなら、私が魔女だとわからなくても納得がいくわ)
魔女たちには、それとひと目でわかるとある特徴がひとつ、あるいはふたつある。そのひとつが、一筋の黒髪だ。リリアーズの月の光のような銀髪の中で、その一部分だけは漆黒の闇の色をしている。黒髪の人間は存在していないこの世界で、一部分とはいえ黒髪を持つ魔女は異質な存在だった。
もうひとつが、この真紅の瞳だ。これは魔女たちの中でも限られた者──天生の魔女にしかない特徴。魔女には“天生の魔女”と“吹命の魔女”の2種類があり、天生の魔女は力が強いがとても数が少ない。リリアーズはその天生の魔女であるため、真紅の瞳を持つのだ。
いずれのことも、魔女の存在が周知のものであるこの世界の人間ならば幼い頃に聞かされる常識である。だからこの髪と瞳を見た者はみななにも言わずともリリアーズを魔女だと正しく認識する。また、総じて魔女は薬学、医学、そして魔法に長けており、さまざまな技を駆使して作り上げる魔女の薬は人々の生活と切っても切り離せない存在であるのだ。ほとんどは人を救う善良な魔女として受け入れられているが、ときどき意地の悪いことばかりしている魔女もいる。だからシルフィもリリアーズを警戒したのだと思ったのだが──まさか記憶がないとは。
(どうしたものかしらね……)
魔女の中には人に崇め奉られて過ごしている者もいるらしいが、リリアーズは100年ほど前からひとりで森の奥深くの小さなこの家に住んでいる。薬を売ったり依頼を受けたりするために近くの町へ行く以外はこの森から出ない。魔法で大抵のことはなんとかなるし、なによりもできるだけ人と関わりたくないという思いが強かった。
(……情を移してはいけないわ。これはあくまでいつもと同じ人助け。この子の家族をとっとと見つけて、帰してあげましょう)
そうして、シルフィは家族のもとに、リリアーズはもとのひとり暮らしに戻るのだ。双方にとって、それが最も良いこと──。
当面の目標を再確認したリリアーズは、立ち上がって大量に積み上がった魔法書の山から1冊を手に取った。
ひとつしかないベッドはシルフィに譲ってしまった。魔法で新しく作るのも面倒なので、今日はこのまま研究に没頭することにする。
そうして、小さな息と紙をめくる音だけが響く静かな夜が更けていった。
お読みいただきありがとうございました!