探偵事務所の主
俺の朝は二階の部屋をノックすることから始まる。
返事があれば、下に降りて朝ごはんの準備。
返事がなければ、ひたすらノックを続ける。
本当は部屋に入って、布団をひっぺがし、無理やりにでもおこしてしまいたいのだが、部屋には入らない約束で、俺はお利口なことに、それをこの一年破ったことがない。
破ると、マジで命の危険があるからだ。
だが、部屋の主が起きてこなければ、うちの事務所は開けられない。
五分の二くらいの確率で主は起きないため、いつもドキドキするのだが、意外にも今朝は、二回のノックで返事があった。
(今日は、張り切ってるな。ということは。)
返事があれば楽ではあるが、あまりにしゃっきりしている日は、別の問題がある。それは、今日、ある来訪者があることを意味しているからだ。
(あいたくねーなあ。)
その人物には、いい印象があまりない。
たぶん、あっちもそうなんだろうが。
とりあえず。
俺は朝のルーティーンに従って、朝食をつくり、来訪者に備えて、多めのお湯を沸かしはじめた。
事務所の机をふき、玄関の鍵を開けて看板を出す。
『遠谷探偵事務所』
「おはよー、甲斐くん。」
そうこうするうちに、二階から降りてきた主があくび混じりに挨拶してきた。
すらりとした足を惜しげもなく出す、シャツワンピースのパジャマ姿。
無造作に下ろした髪は、綺麗なロングストレート。
化粧をほどこしていないすっぴんなのに、充分きめ細やかな肌と、桜色の唇。
遠谷沙耶、を名乗るこの女性が、この事務所唯一の探偵にして、二階の部屋の主である。
「おはようございます、沙耶さん。」
俺は、ワンプレートにまとめた朝食をテーブルに並べながら、返す。
「今日の朝ごはんは何かなー。」
言いながら、子どもみたいに目をキラキラさせる沙耶さんに、できたてのベーコンエッグとサラダ、トーストを出すと、
「いただきます。」
沙耶さんは丁寧に手を合わせてから食べ始める。
沸かしたお湯でコーヒーをいれながら、満足げな沙耶さんを眺めるこの時間を、俺は結構気に入っている。
少なくとも、この日常がずっと続けばいい、と思うくらいには。
「今日は雨なのね。」
ふいに沙耶さんが言った。
「はい。小雨ですけど。」
俺はうなずく。
沙耶さんはふと手を止め、少し考え事をしているようだった。
「甲斐くんがうちにきて、もう一年になるのよね。」
「そうですね。」
俺も遠い目をしてしまう。
それで雨、か。
この時期は、季節の変わり目で、雨が降りやすい。
俺がこの事務所に転がり込んだ日も、やはり雨だった。
あの日、俺はどこにもいく場所がなかった。
裏路地で途方にくれていた時、たまたまいた場所が事務所の前で、中から彼女がでてきたのだ。
「大丈夫?雨宿りしない?」
俺の顔を見た沙耶さんは、一瞬ハッとしたような顔をした。
それだけ、俺はひどい顔をしていたに違いない。
事務所のシャワーを貸してもらい、服も借りてでてくると、沙耶さんは温かい紅茶をいれてくれた。
仕事をしてくる、と言って奥に行ったまま、沙耶さんは一向に返ってこず、俺は眠気に負けてソファーで眠ってしまった。
それから、沙耶さんが追い出さないのをいいことに、居座っていた俺は、ある日を境に、ここの従業員になったのである。