兄さんゴメン
雲一つの無い青い空。
その下には空と同じく綺麗な青い海が広がっている。
僕は木を背に木陰で座り、ただ白い砂浜に打ち寄せる波を眺めている。
これだけ聞いたら羨む人がいるかもしれないが、実際はそんな素敵な状況ではない。
全身が今まで感じたことがないほどに怠い。
口もぱさぱさで、唇も切れてしまっているがもう血すら出ない。
この島に連れてこられてから三日目。
僕は死にかけていた。
「ぐ、ぐぐ・・・ああ・・・」
用を足したかったのだが、先っぽから歯磨き粉のようなものが出てきただけだ。
水を飲まないといけない。
子供だってわかるような状態だが、どうすればいいか全くわからない。
持ち物はナイフ一本だけ。
海の水は流石に飲むわけはいかない。
二日間、島を歩いて川を探したが見つけられることは出来なかたった。
今背にしている木はヤシの木なのだろうか、先にヤシの実のようなものが見えるが木を上る技術も体力もない。
兄さんだったらどうしただろうか。
きっと兄さんだったら僕の思いつかない方法で木に登り、あのヤシの実を割って水分を補給したに違いない。
食料だってそうだ。
僕は何もできない。
そうだ・・・だから僕は兄さんを助けなきゃいけないんだ。
手に持ったナイフの刃に自分の顔がうつる。
顔は日焼けしたせいか、それとも体調が悪いせいか真っ黒だ。
「兄さんゴメン・・・」
諦めて目を閉じる。
ただ波の音に集中し、この倦怠感から逃れられる為に眠りに突こうとする。
このまま兄さんの後を追うのも悪くない。
そう思った時に今までの事を思い出した。
僕の家族は父と母がいて、兄と僕。
親の両親は早くに亡くなっていたが、所謂普通の家族だった。
しかし、僕が中学に上がった時に父さんが死んだ。
建設現場で働いていた父さんは、現場での事故に巻き込まれてしまったらしい。
それからは母さんは毎日仕事で家にはおらず、食事などの家事はいつも兄さんがやってくれた。
少し寂しい気もしたが、兄さんは「むしろ片親なのは普通だよ」と笑っていた。
兄さんが言うには日曜夕方系アニメの家族は幻想で、実際はあんな高収入の家族は稀。
離婚率や出生率を考えたら僕たちの家族こそが普通なんだと。
あの頃の僕には何を言っているか分からなかったが、兄さんなりの励ましだったかもしれない。
翌年、兄さんが高校二年生になると家計を助けるためにアルバイトを始めた。
中学生だった僕はやっぱりよくわかっていたが、兄さんはバイト代の殆どを家にいれていたらしい。
きっと遊びたかったに違いない。
だが、兄さんは学校とバイト以外はほとんど外出せず、いつも勉強をしていた。
兄さんの友達に聞いた話だと、兄さんは運動神経もよく見た目も悪くなかったせいか学校でも人気があったらしい。
色々な誘惑があっただろう。
だけど兄さんはその時間を勉強に費やした。
兄さんが勉強をする理由。
それを知ったのは僕の高校受験が終わったころ、同じく兄さんの大学受験が終わった時だ。
兄さんは受験費用をすべて自分で出し、一流の大学に合格した。
そして母に負担をかけないように奨学金を貰い、引っ越し費用も高校の間に貯蓄していた。
今後は兄さんの分のお金がかからない。
母は喜んだが、兄さんが居なくなってしまうのは寂しかった。
そんな僕に兄さんは笑って頭に手を置くと、「卒業したら一緒に暮らそうな」と言ってくれた。
兄さんの目的はいい仕事について僕たちを養う事だった。
高校に上がったら僕も一生懸命勉強をしよう。
しかし、兄さんが出ていく前に事態は変わってしまった。
今度は母さんが死んでしまったのだ。
病気でも過労でもない。
原因は交通事故。
自転車で仕事先に向かった母さんに車が突っ込んできたのだ。
さらに不幸は続いた。
母さんを殺した車の運転手は高齢者で、罪が軽くなる可能性があると言われたのだ。
今考えれば僕には選択肢がいくつかあった。
母さんの事は残念だったと諦め、高校に行かずに就職し兄さんと暮らすことだってできたはずだ。
だが、僕は考えるのを止めて兄さんに全てを押し付けてしまったのだ。
兄さんは大学を諦めて建設の仕事に就いた。
父さんと同じ仕事だ。
学歴がない人間が稼げる方法は限られている。
裁判の事や僕のこれからの事を考えるとそれしか選択肢がない。
兄さんの言う事がすべて正しいと思っていた僕は疑う事も心配することもしなかった。
そして二年がたち、僕の大学受験が近付いていた。
裁判は相手に無罪判決。
納得がいかなかったが、判決直後に相手が高齢だったこともあり亡くなってしまった事。
僕も兄さんも長引く裁判で疲れてしまい結局有耶無耶になってしまった。
だが、いい事もあった。
兄さんの会社が上手くいっているのだ。
建設業界は元請け、下請け、孫請けなどが当たり前で、作業の種類によって会社や職人が変わってくる。
そこで兄さんは複数の作業をこなせる職人がいれば下請けなどに頼らず作業効率も上げられると考え、自分がまずそれになる為に努力したのだ。
元々勤勉で天才気質だった兄さんは短期間で複数の資格、技術を身に着け考えを実現した。
おかげで僕はアルバイトをする必要もなく、塾にまで通わせてもらえた。
兄さんが行けなかった大学に僕がいく。
それが僕にできる唯一の恩返しだと思った。
夏休みに入り、夏期講習が始まる。
順調にいけば合格は何とか出来そうだ。
早く帰って兄さんに見せようと模試の結果を鞄にしまい、帰ろうとした時に講師の一人に呼び止められる。
その顔を見て僕は嫌な予感がした。
そしてその予感は的中した。
「お前の兄さんが建設現場で事故にあったらしい」
――――――
病院の一室で一人うなだれていた。
いや、一人ではない。
目の前には兄さんがいる。
顔を上げて兄さんを見るが、兄さんは動かない。
眠っているように見えるが、握っていた手は硬く、その感触が嫌でも兄さんの死を伝えてくる。
「親父と同じ死に方は嫌だな」
それが兄さんの最後の言葉だった。
建設現場の足場が崩れ、兄さんは高い場所から落下してしまった。
命綱をつけていたが、それを固定していた場所ごと崩れてしまったので防ぎようすらなかったのだとか。
そして兄さんの体にはいくつもの建材が刺さり、被さり、潰したらしい。
手術室に入るときには布で隠されていたが、隠しきれないほど大きい鉄の棒が刺さっているのが見えたので、きっとあれが原因に違いない。
どれくらいたったのだろう。
ここにいてから24時間以上は立っている。
だが、まだ死を受け入れ切れてはない。
色々なことがそれを邪魔したからだ。
始めは葬式の事だ。
兄さんの遺体の前に案内された直後、すぐに葬儀屋の人が現れた。
兄さんの葬儀はどうするのか、規模、お金の話。
遺産相続が終わるまで兄さんの銀行口座は凍結されるらしく、費用が足りないのであれば一刻も早く下ろしてくる必要があるらしい。
すこし考える時間が欲しかったが、病院にいつまでも遺体を置いておくこともできないし事故だったので検視も必要と言われて慌てて一度家に帰った。
そこからはほとんど覚えていない。
そもそも高校生が一人で抱える問題じゃない。
せめて親戚がいればよかったのに。
もう少ししたら兄さんは検視の為に移動されるらしい。
そしたら一度お別れだ。
お別れ・・・。
そこで初めて不思議な感覚が胸を締め付ける。
悲しみだろうか。
いや、兄さんが死んで悲しかった。
ずっと悲しかった。
ならこの気持ちは何だろうか。
心の底から兄さんの死を受け入れてなかったからだろうか。
そういえば僕はまだ涙を流していない。
胸の締め付けが一段と強くなり、体勢を維持できず床に座り込む。
床に額をつけ、痛みに耐えながら目を閉じる。
苦しい・・・。苦しい・・・。
「目を開けて立ち上がりなさい」
突然声がして、すっと胸の痛みが消える。
驚いて顔を上げると、一人の男がこちらを見ていた。
司祭服だろうか。
金色の装飾のついた真っ白な服を着ている。
何よりも特徴的だったのは彼の顔は人間のものではなく、トカゲ・・・、いやドラゴンのような顔をしていたのだ。