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ハズレ加護を引き当てた令嬢は召使いとなって働かされていた。 ~サンドリヨンはガラスの靴で踊らない~

※ざまぁはありません。



 ちりん……っ。

 わたしにとって鈴の音は、心を落ち着かせるようなものじゃない。びくぅと体が縮こまってしまう。体中から血の気が引いて、手に持っていたほうきを落とす。

 早くしないと怒られちゃう。

 この鈴の音が聞こえたら、五分以内に行かないといけない。

 リーゼ叔母様は魔女みたいなひと。とんがった鼻とか、鋭い目つきとか。お姉様とお兄様には優しいけれど、わたしにとっては厳しい。

 

「──遅いですわね、ミス・クイナ」


「ご、ごめんなさいリーゼ叔母様」


 スカートの裾を少しだけでつまんでお辞儀。《役立たず》のわたしを、少しでもマシにするためにリーゼ叔母様が教えてくれた。背筋や角度、言葉遣いなど……。苦手、そんな細部まで気を遣う必要性がわからない。


 叔母様は苛立たしそうにヒールで音を立てていて、ますます委縮してしまう。

 怖くてたまらないけれど、おそるおそる顔色をうかがって。


「本日は5時に起床、料理長の仕込みの手伝いと井戸からの水を汲み上げて貯水樽に移す。午前7時にはエリーナお嬢様とロキお坊ちゃまのお食事の用意。いつも通りの朝の仕事、今日の朝は何も特別なことは申しておりませんよね?」


「は、はい……」


 叔母様はすごく賢い。

 頭の良くないわたしと違って、説明も上手で話も分かりやすい。相槌を打つ暇もないくらいに早口で、一気に喋っちゃう。聞き取りづらいけれど、メモを取ろうとすれば「一度聞いて覚えられない召使いがどこにいますか」と、わたしを睨む。

 今回もそう。おどおどするわたしを睨んで、叔母様は大きなため息をついていた。


「料理長が申しておりました、あなたの洗った食器が汚いと……」


 始まるのは、いかにわたしが《役立たず》で《愚図》であるかの説明と、兄と姉がいかに優秀だという話。もうやだ、聞きたくない。そんなこと怖くて言えないから、わたしはいつも頭を下げて静かにしてる。

 わたしはクイナ。

 クイナ・ベルモント・シャーリーテンプル家の末っ子にして、汚点。

 四年前《洗礼》と呼ばれる素晴らしい儀式を受けた。この国の人間は、五歳になれば“天使様”から加護を授かっているかどうか知る慣行がある。天使様は素晴らしい存在だから、その加護を授かった人間は人々を導いて統治する素養があるのだと。

 一番上のエリーナお姉様、二番目のロキお兄様には加護がある。詳しく教えてもらってないけれど、位の高い天使様の加護があるらしい。


『貴族の家系に良い天使様がついているのは当然のこと』らしいが、母親の代わりに教育係をしている叔母様は、鼻を高くして周りに自慢していた。だから三番目のわたしにも期待の目が向けられた。わたしも、その当時までは良いお嬢様であろうとしたし、当然いい位の天使様が加護してくださると思っていた。


 残念ながら、加護は加護でもハズレ加護だった。「サンキュウ」らしい。三流という意味とほとんど同じ意味だと気付いたときには、向けられる視線は失望に変わっていて。

 エリーナお姉様のように上手に舞踏会で踊れるわけでもなく、ロキお兄様のように魔法に才があるわけでもなかった。リーゼ叔母様は《役立たず》に見切りをつけ、二人に多大な教育費をつぎ込んで……。


 そして、いまのわたしがいる。


 見習い召使いとして家にいさせてもらえるだけでも誇りに思え、リーゼ叔母様はそんな調子でわたしに接する。妹が召使いなんて恥ずかしい、と言われたのはエリーナお姉様だったかな。ロキお兄様は『最初から妹なんていなかった』という感じで、わたしのことを無視してる。

 召使いでもいいから、何とかしてみんなに認められたい。苦手な最低限の作法もマスターして、肌が荒れても食器洗いを毎日して、酷い扱いをされてもお姉様のお世話を手伝って、生きた的と称したお兄様の魔法練習に付き合って。

 自分なりに頑張ってきたのに。


「あなたは皿洗いもろくにできないの?」


「そ、そんなはずありません! わたしはいつも綺麗に洗って……」


「では料理長が嘘をついたと言うのですか?」


 そう言われると、言い返せない。料理長が嘘をついて虚偽の報告をした、そんなこと信じたくない。

 そんなわたしの様子を見たリーゼ叔母様は、また大きなため息をついていて。


「あなたはどうしてそう《役立たず》なの。お家に恩返ししたいとは思わないのかしら? せめて召使いとして一流になろうという気持ちは湧き上がってこないのかしら?」


 ……我慢するしかないのかな。

 早く、この状況から逃げだしたい。

 

 




 どれだけ質素でも、食事の時間は至福のひと時だった。

 悪意がこもった残り物でもいい、生きていられることに感謝したい。


「ねぇフィーナ、今日のパンはとっても美味しいよ。硬いけどね」


 ……独り言じゃなくて、ちゃんと話しかけているのだ。胸にあるたった一つの宝物。そして、たった一人のお友だち。《役立たず》と言われてからずっと、心の傷を癒してくれる大切な天使様。

 

 わたしは、服の中にしまいこんだ神秘具を取り出す。とっても綺麗な、まるで宝石のような石。詳しいことは分かんない。ただこの石が、唯一天使様と交流することのできる魔法の一品なのだという。エリーナお姉様とロキお兄様と同じ《加護》を授かった証で、もらったときは本当に嬉しかった。


 フィーナ、というのはわたしが作った天使様の名前だ。

 わたしの天使様は位が低くて、自分から声を出すことがない。でもフィーナはこの石を通じて声を聞いているはず。そう信じて、誰もいない場所でフィーナに今日あった出来事を話すのが日課だった。

 こんなことがあったよ、こんなことを感じたよって。


「わたしね、たまーにこのパンでお腹壊しちゃうこともあるんだ。美味しいんだけどね、ちょっと日数が経って腐っちゃってる。えへへ、バカだからそんなことも分からず食べちゃんだー」


 本当は違ってお残しは厳禁だから。

 料理長から出された食事が、たとえ腐っていようがカビが生えていようが、食べなければいけない。


「うーん……今日のパンは美味しいな……」


 ……お腹が痛くなってきた。

 どうしよう、このあとの仕事は明日に回そうかな。持病とかの関係で、叔母様は夜にチェックしない。明日の朝に誰よりも早く起きれば誰にも気付かれないで済む。

 そうと決まれば早いところ寝床に行こう。寝れば治るかもしれない。

 

 残ったパンとスープを胃に流し込んで、慌てて食器を洗う。料理長にごちそうさまでしたと最敬礼の挨拶をして、次の仕事に向かうことを伝える。誰もいないところから屋敷を出て、湿った裏道を進む。

 10分ほどで、今にも崩れそうな苔だらけの木屋に着く。あ、すっごい雑草が伸びてきてる。仕事終わりはへろへろになって帰ってくるから、周りの雑草なんて気にしてなかった。虫が出るし蛇が小屋に住み着いたら大変だ。明日の朝にでも刈っておかないと……。

 じめじめしてるなぁ。

 材木を適当に寄せて作った寝床に、ボロボロの布切れをシーツ代わりにして、雑草で作った布団を抱きしめる。慣れたけれど、柔らかいベットと枕が恋しくい。苔よりもお日様の匂いに包まれたい。

 雨漏りかな、鼻先に雫が当たって体を避難させる。



「おやすみ……フィーナ。明日も頑張るね」



 ただ、毎日がこの繰り返しだと感じていた。

 いずれは大人になって、立派な召使いになって叔母様に認めてもらう。

 それがわたしの人生なのだと、そう思っていたけれど……──


 

「──なに、これ……」


 昨晩できなかった仕事を終え、屋敷に戻って朝の支度をするはずだった。

 なのに、厨房には誰もいない。人の気配すらない。召使いを束ねるリーゼ叔母様は誰よりも早起きで、この時間には身支度を整えてわたしを睨んでいるはず。エリーナお姉様は髪の毛をとかせながら自慢話を聞かせるため、あくびをしながら待っているはず。ロキお兄様は鍛錬だと称して庭先で魔法の練習をしているはず。


「誰も……いない……」


 そういえば、最近は叔母様から変なことを頼まれていた。荷造りだ。それもちょっとお出かけや旅行するようなレベルじゃない。高そうな絵画や像、アクセサリー類、食器等々を詰めるのが大変だった。まるで、この屋敷から出ていくかのように……。


 引っ越し? ううん、だったらわたしを置いて出ていくなんて……。


 どれだけそこで呆然と立ち尽くしていたか分からないけれど、とにかく「追いかけよう」と思った。叔母様に認められたい思いで毎日頑張ったのに、これじゃあ何の意味がない。今さら放り出されたら、まるでわたしが…………本当に最初から存在しなくて、期待されてなかったみたいじゃない……。


 頬を濡らしながら、屋敷を出て走った。





  ◇





「おいおいまだガキじゃねぇか」


 いかにも怖そうというのが第一印象だ。黒いノースリーブのシャツに、これでもかというくらい胸筋が盛り上がってはち切れそう。全身から漂う鉄と油の匂いも相まって、話に聞いていた通りの鉱夫ぶりだった。聞くところによると、彼が私を買ったラウガという男らしい。


 彼は苛立たしそうに、もう一人の青年を睨んでいる。お金を出したのはラウガだが、奴隷商から私を選んだのはこの青年だ。ひょろっとしていて、私を見つけて話しかけたときも柔和な笑顔を絶やさなかった。正直、今までの経験上においてこういう笑顔の男は危険だ。

 何度こんな笑顔に騙されそうになったか……思い出したくもなくて、思考を払う。注意深く二人のやり取りを見守った。


「そう言うなよ。君があのお金で華のある女の子を一人買ってこいって言ったんだろう」


「だからってこんな乳臭ぇボロボロのガキを買ってこいなんて、……あぁ胸糞悪ィッ。なんでこんなちっせぇんだよ、俺の娘とほとんど変わらねぇじゃねぇか!」


「はは、途中から奴隷商への怒りに方向転換してるのがラウガらしいよ」


「ちっ。こんな胸糞悪くなるんだったら、酒の約束でもやめりゃあよかったぜ」


 ……話を聞く感じだと、私が買われた理由は酒の席で始まった遊戯なのだという。彼らがいる酒場には女性店員が一人しかいない。看板娘が一人欲しいねと言って盛り上がり、いい子がいたらという条件付きでこの青年が奴隷市に出向いた。結果、選ばれたのは私。


 買ったはいいものの、奴隷を買った罪の意識でも芽生えてしまったのだろうか。シュゼロという男はともかくとして、金を出した張本人は頭を抱えている。俺の娘と変わらない、と言っていたので自分の子どもと重ねてしまったのだろうか。


「ったくシュゼロ、てめぇはよォ……!」


「彼女はこの見た目通り、ボロボロの服を着て何日もお風呂に入っていないだろう。……おっと失敬、小さな淑女(リトルレディ)には失礼だったね。まあでも、彼女には作法がある。見たまえよ、ラウガ」


 まるで見世物のように、私の背を押してアイコンタクト。

 奴隷商にも、自分を売り込むには愛嬌が大事だと言われたので何となく察した。とはいえ、この二年間で私の可愛い女の子要素はお引越しを果たした。泥をすすって生きてきたので、それくらい勘弁してほしいものだけれど。


「さあ、クイナちゃん」


 青年に促されるまま、私は完璧なお辞儀とあいさつをし、仮面の微笑みを浮かべる。どんな泥服で汚らしい身なりでも、私の作法は貴族仕込みだ。どんな相手にも不快に思わせないよう、リーゼ叔母様に叩きこまれたのだから。


「す、すげぇ。……なんかいま、クイナちゃんに後光が差さなかったか?」「俺も見たぜ、すっげぇ」「……確かにまだ11の子どもだけど、なんかしっかり躾けられてるし、顔もよく見たら超可愛いんじゃね?」「成長した姿が楽しみだなぁ」「俺、クイナちゃんのファン第一号!」「俺二号!!」


 酒が入っているとあって、たくさんの鉱夫たちが私に注目している。

 シュゼロは「ほらね」と言わんばかりの顔でラウガを見ている。得意げな顔だ。口ではシュゼロに敵わないのだろう、ラウガは後ろ髪を掻きながら唸っている。


「ちなみに返品は無しだよ?」


「うぐぅ……シュゼロの野郎……」


「決まりだね」


 シュゼロの声を皮切りに、酒場の男たちが歓喜に湧いた。歓迎の印だと言わんばかりに拍手が鳴り響き、どこからか音楽までも奏でる始末。ある者は酒樽を追加し、ラウガに渡して乾杯を果たす。またある者はシュゼロと肩を組み、どうやら私を見つけ出したことを褒め称えているようだ。


 何がそんなに嬉しいのだろう? 

 可愛い奴隷を買って酒場の看板娘にしたい。これは突飛な酒の席で始まった思い付きで、深い意味はないはず。出自不明にプラスして口数の少なさと愛嬌の無さ、返品された×印(バツじるし)付きだったので、周りに比較して値段が格安だったはず。だから、ここに連れてこられた。

 ただ、それだけの商品なのに。


「ようこそ、我が《勇敢なる戦士(アイン)たちの憩い場(チャグム)》へ。そして今日から、君はアインチャグムファミリーの仲間入りさ」


 私には、なぜ彼らが喜んでいるのかよく分からなかった。







 酒場でよく分からない体験をしたあと、私はラウガ……さんと一緒に酒場の裏に来ていた。ラウガさんは奥さんと二人で酒場を経営しているらしく、週末を利用して毎週どんちゃん騒ぎしているそう。その裏には二人の家があって、多くの子どもたちと一緒に生活している。


 奴隷商人に捕まってから、そこで色々な子どもたちと話す機会があった。みんな泣いていて、自分の運のなさを嘆く子ばかり。笑顔なんてあるわけない。私にとって同年代や年下の子はそういう印象で、だから。 子どもたちが満面の笑顔でラウガさんに群がっていく様子が、とても不思議だった。


「ねぇねぇお父さん、今日ね、お母さんと一緒にお外に遊びに行ったんだよー」

「おおそうか、楽しそうだなヒカル」

「ねえねえお父さん聞いて聞いて」

「どうしたんだ、ココ」

「じゃじゃーん、これいつも頑張ってるお父さんへのプレゼント! お花で作った冠だよ!」

「おお、すごいじゃないか! 父ちゃん嬉しいぞー」


 子どもが笑って、父親が抱きしめてほっぺたにキスをする。頭を撫でて褒めて、頑張れと応援する。はじける笑顔が眩しくて、思わず目を細めずにはいられなくて。


「悪いなクイナ、先にレベッカんとこ行って……どうした?」


「え? あ、あの……申し訳ありません。ちょっとびっくりしてしまいまして。……すぐに奥様に挨拶して参ります」


「お、おお……」


 見惚れていたなんて思われたくなくて、頭を下げてその場から逃げる。ダメだ、私は今日からこの酒場に身を置かせていただく人間。こんな出始めから主人に粗相をしては、またいつ首を切られるか分かったものではない。ラウガさんから離れて、狭い家の奥へ。どういう家の構造になっているのだろう、突き当りでいきなり螺旋状の階段に出くわした。上? 奥様は上にいらっしゃるのだろうか。

 軽い鉄の音を響かせて上っていると、分かったことがある。外見から、まるでからくり屋敷みたいだなと感じていたけれど、内部の構造はそれ以上だった。上っている途中で吹き抜けの場所があり、外が見渡すことができる。

 夕日が、鉱山で栄えた街を照らしている。見たこともないほどの巨大な石の建物群。小高いはげ山に興した小さな町が、今のこの街を作ったのだとか。ここからは見えないけれど、街の南部には石炭を掘り起こす巨大な炭鉱場がある。……だからだろうか、どこに行っても汗と鉄と油の匂いを感じた。

 少し見つめてから、また上り始める。いったいこの家は何階建てなのだろう。一番上が家族と団らんする場所だと聞いていたので、いくつかの階層は無視をした。

 足腰が悲鳴を上げ始めたころに、ようやく最上階と思われる場所へ。三角形屋根があった部分だろうか、さほど広くない丸い部屋。暖炉と簡易的なソファ、小さな台所もある。


「あんたがラウガが言ってた子?」


 綺麗なひと……。長い茶髪を一本に結わえていた、猫目の女性。ふくよかな体で、しまるところは締まっている。この方がラウガさんの奥様だ。私がこれからお世話になる人。叔母様ほどじゃないけど、目つきが鋭くて少し怖い。でも、ここからが正念場。前はここで気に入られなくて良い待遇を受けなかった。


「く、クイナです。どうぞよろしくお願いいたしましゅ」


「しゅ……?」


 ……噛んだ。やらかした。失態だ。ダメだ、また私は捨てられる。ヘマしたら二度目はないと、あれほど奴隷商に言われていたのに。


「可愛いじゃないかい」


 おそるおそる見てみると、奥様は驚いたように目を丸くしている。縫いかけの服を横において、私に両手を広げる。ぶたれると思って反射的に目をぎゅっと瞑ったけれど、温かな奥様の体温に包まれる。


「ファミリーへようこそ、クイナ。あんたを歓迎するよ」


「お、奥様……私は奴隷です…………汚れますっ!」


「あんたはもう奴隷じゃない、あたしの娘さ。それにほら、汚れなんてお風呂に入れば綺麗になるもんだよ」


 そういう意味の汚れじゃないと言おうものなら、唇に人差し指を当てられてしまう。奥様は私の枝毛だらけの髪を優しく撫でたあと、頬を包み込む。笑ってと言わんばかりに、むにぃと口角を押し上げられる。


「晩御飯のまえにお風呂に入ろうか。さすがにその恰好じゃ、飯にありつけないよ」


「あの……仕事は……」


「身なりを綺麗にするのが最初の仕事だよ。ほら下に行くよ」


 身なりを綺麗にするのが仕事か……。確かに、リーゼ叔母様にもよくそう教えられた。召使いに気品がなければ主人の品格が疑われる。一流の主人は一流の召使いが仕えてこそ相応しい。

 そう自分を納得させないとこの状況を理解できなかった。

 歓迎するよと言われて、頭を撫でられるなんて初めてのこと。柔らかくて温かい手で、なにより優しい……。緊張のあまり上手く対応できてたかな? 変、だったかな? どうしても不安になってしまう。


 奥様と一緒に階段を下りる途中、追いかけっこをする子どもたちとすれ違った。奥様は「あんたたち、上で寝ちゃダメだよー」と大きな声で叫ぶと、小さくなった白い背中から「わかったー」と返ってくる。


「まったくもう……」


 慈愛に満ちた彼女の苦笑い。

 頭二個分は高い位置にあろう奥様の顔を見上げてから、歩みを進める。おそらく脱衣所と思われる場所からは、もんわりとした白い湯気が充満している。わぁ、お風呂なんて何カ月ぶりだろ……。


「あぁやばっ、あの子たち熱がりだからもうかなりぬるいかも……」


 ぬるくても冷たくても気にしないのに、奥様は大慌てで脱衣所を飛び出していく。たぶん温度を調節しに行ったのだろうが、私はどうしたらいいのだろう。先に入れとも言われてないので、とりあえず待つ。

 本当に大家族なんだ……。

 子どもたちの脱ぎ捨てた服が木製の籠の中にこんもりと。そういえば……この家には私以外の召使いはいないのだろうか。奥様一人でこの量の洗濯をこなすのは骨が折れるだろう。子どもも多いし、乳母が一人くらいいてもいいはず……。


 どんどん、と風呂場から物音。脱衣所ののれんから顔を覗き込ませてみると、真っ白い壁の向こうから奥様の声が聞こえた。くぐもっていてよく聞こえないが、湯加減を確かめてほしいのだと理解する。


 すぐに風呂場に入って確認して、ちょうどいいことを伝える。

 なんてことのない作業も緊張の連続で、ほっと一安心。

 脱衣所まで戻ってきた奥様は、驚くべきことに額に汗を浮かべて息を荒くしていた。やっちゃった。これから仕える奥様に労働をさせてしまった。

 非礼を詫びるため頭を下げる。


「まさか湯を沸かすのにこのような手間暇がかかるとは露知らず、申し訳ありません! 今後は奥様のかわりに私が行います!」


「おお、頼もしいねぇ。うちは働かぬ者食うべからずだから、もちろんクイナにも働いてもらうよ」


「はい!」


「でも、今日に限っては違うよ。あんたは新入りだからね」


 あろうことか奥様は、私の服を脱がせてきた。リズミカルに、テンポよく身ぐるみをはがされ、私は生まれたままの姿になって風呂場に突入させられる。呆然と突っ立っていると、のれんの向こう側から美しい肢体の奥様が入ってくる。


 ますます訳が分からない状態で、混乱するばかり。

 人生で初めて、人を洗う側ではなく洗われる側に立ってしまった。感動やら困惑やら様々な気持ちがたくさんあって、私はうつむくことしかできない。そうするとすぐに、お喋り好きな奥様が「いい湯だねぇ」なんて言って、会話しようとしてくれる。やっぱり思ってしまう、なぜ《役立たず》な私にこんな態度をとってくれるのかと。


「──ほら、入っておいでよ」


 お風呂に入ったあとに、再び最上階まで案内された。どうやら風呂場で過ごしているうちに、ラウガさんたちが晩御飯の用意をしていてくれたらしい。階段を上っている途中でも、ニンニクとベーコンの匂いから食事の時間だということは予想していた。だから今日の仕事は、きっと食事のお手伝いだと考えていた。


「なにぼけっとしてんの、あんたはここ。今日はあんたが主役なんだがら、ここに座んなきゃだよ」


 促されるまま座った席は、ラウガさんや奥様、子どもたちを全員見渡すことのできる場所で。

 いわゆる主役席と呼ばれ、私のような見習い召使いが居ていい場所ではなかった。


「クイナお姉ちゃんダメだよ、今日はおねちゃーんがしゅやくぅ」


 さっきラウガさんに花の冠を渡していた女の子が、両手に持ったフォークとナイフで机を叩く。そーだそーだと他の子が続き、視線は全員私のもとへ。どうしよう、こんなに注目されたことない……。


「はは、みんな可愛い子たちだろ?」


 大鍋を持ってテーブルの真ん中に置く。急かす子どもたちを抑えながら、大小異なる食器にスープを注ぎ込んでいく。手渡された子たちはこぼさないように睨めっこしながら、自分のテーブルの上へ。そして他の子たちが終わるのを待っている。

 最後にスープを渡された私は、さきほどの質問に「……はい」と答える。子どもたちは可愛い。ただ、どう接したらいいのか分からない。この食事の時間になっても乳母や他の召使いが現れないのはどうしてなのだろう。……その疑問は、みんなの食事が始まったころに聞いてみた。


「え? この家にはそんな人を雇うお金なんてないよ」


「うそ、だってこんなに子どもたちがいるのに……」


「確かに大変だねェ。子どもは五人いるし、旦那も仕事でへとへとになるから、無理に手伝ってとは言えないしねぇ」


 奥様はスプーンでスープをすすって、「んー」とひと声。


「大変だからこそ、楽しいっていうのもあるよ。子どもたちの成長を見守るのは楽しいし、毎日色んな発見があるしね」


「発見……?」


「お空が綺麗だよーとか、虫がいっぱいいるーとか。あと、この子たちが新しい言葉を教えてくれるしね」


 ……そういうものなのだろうか。

 ただ何となく、こんな素敵なお母様に育てられて、無邪気に笑う子どもたちが羨ましいと感じてしまう。奥様がもし私のお母様だったら……なんて、場違いな妄想もしてしまうくらいに。


「あとクイナ、さっきから召使いはーだの、仕事はーだの言ってるけど、あたしはあんたを召使いとして迎え入れたわけじゃない。言ったろ? あんたはうちのファミリーだよ」


 ほら、遠慮しないで食べな。

 促されるままスープを口に含み、パンをかじる。


 ああ………美味しいなぁ。

 すごいよフィーナ…………パンが腐ってないや……。


「ちょっとクイナ、何も泣くことはないだろ? まぁ、泣くほど美味しいんならいくらでも食いな。な?」


「はい。奥様の多大なるご配慮に、感謝……いたします……」


「奥様じゃない、レベッカでいいよ。あたしは奥様なんて柄じゃないから」


 ただひたすら、嬉しくて。

 その日、お腹がはち切れそうになるまで何杯もおかわりをした。

 




 ◇






 ロープに白いシーツをひっかけて、落ちないように洗濯バサミで固定。これをざっと八回繰り返してから、伝統の洗濯芸をするべく向こうのとんがり屋根に向かって声を張る。いつでもいいぜ! 声変わりにさしかかった少年ボイスが返ってきて、私はロープの先端に重りの石を巻き付けながら、


「洗濯、落っことしたらレベッカさんに大目玉だよ」


「へへっ、さあ投げろ!! しっかり受け止めてやるから!」


 とんがった屋根と屋根の距離はざっと十メートルくらいだろうか。何百回も洗濯芸を重ねてきた私は、いつもの調子で足場の確認。この狭い足場で最も助走距離が稼げる位置にまで移動したあとに。

 ヒカルに手をあげて合図し、自分の膂力とフィーナに祈りを捧げてロープを向こう側の屋根まで投げ飛ばした。


「わぷっ」


 向こう側で何とかロープを捕まえ、ヒカルが洗濯芸のフィナーレを飾るのを見届ける。この間、二十秒もかかっていない。


「──いやぁ……クイナ姉ちゃんはすげぇな」


 シーツがなくなった大部屋を掃除をする頃に、年長者であるヒカルが戻ってきていた。私より一つだけ年齢が下の13歳。最近になってようやくラウガさんと一緒に炭鉱に入ることが増えたため、少し筋肉はついたよう。しかし七人プラス一人ワンの洗濯を一挙に引き受ける私の敵ではない。

 ヒカルはシャツをめくって自身の平らな腹筋に語り掛けている様子だった。「俺も向こう側まで投げられるようになりたいな」……少年よ、洗濯芸の道を究めるのは厳しいぞ。


 箒でほこりを払って掃除を終える。その頃には、ヒカルはレベッカさんと一緒に畑の手伝いに行っている。ココもまた同じ。下の子三人(ヤード、グネル、ネネ)は奥の子ども部屋にいるはず。静かなので寝たのかもしれない。

 あ、そうだ。そろそろ昼ご飯の支度をしないと……。

 箒と塵取りを片付け、背中まで伸びた髪の毛を紐で結びながら小走り。掃除用から調理用のエプロンにチェンジして、と──


「クイナーぁ?」


 最上階から響いてくる寝起きの声。

 久しぶりの休暇を満喫しているラウガさんだ。やっと起きてくれたみたい。いびきが豪快でダイニングの掃除ができなかった。……レベッカさんが「ちょっとあんた、なんでこんなとこで寝るのよ! ちゃんとベットで寝なさいよ!」って言ったのを思い出す。ラウガさんどこでも寝ちゃうからなぁ。

 

「はーいー?」


 大声を出せば上の階まで届くだろう。なんたって螺旋状の階段だし、最上部まで吹き抜けだから。


「新聞取ってきてくれぇー」


「了解しましたー! ……それよりラウガさん、いくら休みでも、ソファを占領して寝ないでくださいねーっ。みんなうるさーいって大不評でしたよー」


 豪快に笑うラウガさんは「普段は寝られないとこで寝るのが最高なんだよ」と己を曲げない。おかしくて、思わず笑ってしまう。おっと、それより早く新聞を取りに行かないと。

 リズミカルに鉄を踏み鳴らして降り、狭い廊下をぐねぐね曲がって裏口へ。木箱のポストから目当ての代物を取り出す。


 新聞の一面はなんてこともない。どこそこで誰それが刺された、お偉い人が平民に襲われた……。中には、人様の恋愛事情につけこんだゴシップ記事もある。……ちょっとだけ興味があった私は、一人でこっそりこの面を読んでみたりする。不倫事情、血みどろの相続事情、意中の紳士を落とすための悩殺テクニック等々。日々同じことを繰り返すと、たまにはこういう世界に目を向けるのも悪くないと感じる。

 日中は家事、炊事の手伝い、週末になれば酒場の看板娘として男たちに接客をする。この仕事もずいぶん慣れたもので、今では昔ほど失敗をしない。

 

 リーゼ叔母様にはメモを取らずに全部を暗記しろって言われて、そんなのできないってなったけど、最近は要領がよくなって記憶するのも早くなった。……そっか、なんだかんだ言ってもあの厳しい教育がなかったら、レベッカさんやラウガさんに「仕事覚えるのが早いね」って褒められなかったわけだもんね。


「お姉様やお兄様に、頑張ってる私の姿を見せたら……少しは褒めてくださるかしら……。どう思う? フィーナ」


 昔の私は愚図で。

 それでも努力して耐えきって、今の私がいる。

 今では、あれだけ恐ろしかったリーゼ叔母様の顔がおぼろげになっている。それもそうか、あの日からもう五年も経ってるんだから。

 階段を上っている途中で、ふと、足をとめる。後ろを振り返った。


「リーゼ叔母様は、いまどこにいらっしゃるのでしょう……」


 何気なく、見つめた新聞の一面。

 そこには、美しい少女の横顔が存在していて……──


「……っ!」







「え? クイナお姉ちゃんいなくなっちゃうの……?」


 兄妹のなかで最も私に懐いていたココの沈んだ声。不穏な気配を感じ取った末っ子のネネが泣き始めると、グネルとヤードもそれに続いて駄々をこねる。行かないで。悲壮な声が体を突き刺してくる。

 

「で、でもクイナ姉ちゃんは帰ってくるんだろ!? べ、別にここを出ていくわけじゃないんだろ!?」


「そのつもりだよヒカル。私はエリーナお姉様に会ってお話がしたいだけなの」

 

 長男であるヒカルは、私から発せられた「エリーナお姉様」という言葉に肩を震わせた。何か言いたげな表情で口を開けても、そこから具体的な言葉が出ることはない。存在するのはひたすらの不安感だ。


 今まで、本当にお世話になった。


 私に家族と愛情を教えてくれたレベッカさん。寂しいとき、不安なときはいつも話を聞いてくれた。私の過去の話を、無理やり掘り返すことなく自然に接してくれたこと、本当に嬉しく思う。

 ラウガさんには、半年前にこっぴどく叱られたことが思い出だ。

 炭鉱には多くの女性も働いている。一家全員で稼いでいる人もいるらしく、レベッカさんも結婚前は手伝っていたそう。私はシュゼロさんにお願いして、その仕事を少し手伝わせてもらった。もっとこの家族の役に立ちたいと思って。


「やっぱりクイナは、ずっと気にしてたんだな。血のつながった兄ちゃんや姉ちゃんのことを……」


 鉱山の恐ろしさを知ることなく、知的な好奇心だけで突き進んでいった私に、あのときのラウガさんは泣きながら平手打ちをした。「生半可な気持ちで坑内に入るな!! 死んだらおまえの代わりはいねェんだぞ!!」と。

 私は、あのときのように何も考えずに行動したいわけではない。

 今回はしっかりと考えたうえで、ラウガさんに話している。


「クイナが話したがらないことは、無理に聞こうとは思わねェ。だから子どもたちにも聞こうとするなって言ったし、レベッカにもそう伝えた……」


「……まえに、私は《捨て子》だとラウガさんに言いましたよね。幼くして捨てられて、貧民街に流れ着いて、そこで奴隷商人にこの容姿を買われたと」


「ああ……」


「ちょっと違うんです、本当のことを言います。……私の本当の名前はクイナ・ベルモント・シャーリーテンプル。貴族の娘で、いろいろ事情があって9歳まで見習い召使いとして教育を施されました。ある朝、一家全員と料理長、他の召使いたちは私を置いてどこかに去りました。屋敷を飛び出したあとの話は同じです……騙していて本当にごめんなさい……」


 だからか、という呟きはいったいどちらの呟きだっただろう。どちらにせよ、私の容姿や姿勢、立ち振る舞いから「いいところのお嬢さん」というイメージは初期の頃からあっただろう。ただ奴隷だったという理由から、レベッカさんもラウガさんも、酒場に来る他の鉱山夫も遠慮して知ろうとしなかった。


「謝らなくていいのよ、クイナ」


 レベッカさんに強く抱きしめられる。初めて私を見たあのときのように、優しく頭を撫でられる。違うことといえば、頭が彼女の肩に当たるようになった、ということくらいか。前回は彼女が膝を折らないと届かなかったのに。


「あんたはあたしの自慢の娘だよ。むしろ、話してくれてありがとうクイナ」


「レベッカさん……」


「大丈夫、娘の決意に応援しない親がどこにいるんだって話だよ。洗濯や家事なら任せな、ここに立派な長男がいるからさ」


 ギクッ、と聞こえたのは気のせいではない。よく手伝いを放り出して遊んでしまうヒカルは、もにょもにょと言い訳がましく何かを訴えていたが……。


「お、俺だって立派な男だ。クイナ姉ちゃんの代わりは俺がやる!!」


 涙を拭いて頼もしい。「俺の跡はおまえが継げ」「やだ」というラウガさんとの会話を毎日のように繰り返していたとは思えないほどだ。


「行っておいで、クイナ。自分で見極めて、家族との話し合いに納得したら……いつでも帰ってくるんだよ」


 ……本当に、涙が出るくらいこの家族は優しくて。

 救われるような、思いがした。


 



  ◇




 

 お姉様と過ごした記憶は、ぼんやりとしか覚えてない。

 妹の私をよく思っていなかったけれど、最初からそうだったわけじゃない。確か四歳ぐらいまでは同じベットで寝て、乳母から絵本の読み聞かせをしてもらってた。そういえば幽霊を怖がってて、寝てる私の布団に潜り込んできたっけ……。

 

 彼女の態度が豹変してしまったのは、授かった天使様フィーナの加護が期待外れだったため。


 それ以降の良い思い出はないに等しいけれど、私にとってエリーナお姉様は憧れだった。気高く、美しい。絹のような美しい赤髪が印象的で、天真爛漫な愛らしい笑顔で人々を魅了する。

 舞踏会に参加すれば各賞を総なめ状態、あの当時で何人もの男性から求婚されていたのだとか。

 だから。

 一年前、どこぞの商人の跡取り息子と電撃結婚した記事を読んでも、大して驚かなかった。すごいね、さすがだねって。私を置いてどこにいなくなったのかは知らないけれど、頑張っているようで。

 そして。

 

『大商人の息子、まさかの不倫&駆け落ちか、残された元お嬢様の心境はいかに!? 離婚へのカウントダウンは秒読み段階へ』


 ……苦労、してないわけないよね。

 心のどこかで、私だけが苦労して今を生活していると。恵まれた環境に容姿、才能を持っているのだから、何不自由なく生きているのだと思っていた。

 でも違う……。エリーナお姉様だって努力してなかったわけじゃない。良い加護を授かった宿命として、家の期待通りの努力をして完璧なお嬢様を務めた。

 落ちぶれた家を立て直すために、結婚までして。



「エリーナお姉様は……もう19になるのよね」


 

 寝台列車を乗り継いで十二日、馬車で三日ほどの長い旅路。結婚した彼女の身は、結婚相手の家にあるという。新聞の記事にはご丁寧な別荘の外観まで記されていたので、場所の特定は簡単だった。

 

 門のところまで来て、立ち止まる。私がどう思おうと彼女は拒絶してくるかもしれない。……いや、ここまで来たんだ。勇気を持って銀色の金具ドアノッカーを叩くと、しばらくして年老いた侍女が現れる。警戒した様子を見ると、ゴシップ記者か何かと勘違いしているのかもしれない。

 早々に扉を閉められる前に話がしたいということと、名前を伝えてほしいと丁寧に述べる。「少々お待ちください」きつい言い方だったけれど、背を向けた彼女を信用して待つ。

 十分ほど経過したあとだっただろうか、戻ってきた彼女は、己の目を疑うような様子で中へと案内してくれた。ほっと胸をなでおろして、あとに続く。


 人気のない別邸で、広いだけに驚く。

  

「お嬢様、クイナ様をお連れしました……」


「いいわ。入ってちょうだい」 

 

 侍女が一礼をして去っていく。その際に私を睨むように見ていったのは、気のせいじゃないだろう。大丈夫、私はあなたの大切なお嬢様を傷つけるようなことはしないから。

 むしろ……。


「──慰めの言葉ならいらないわよ……」


 大きなベットに体を起こしていたのは、より一層の美貌を手にした麗しの少女。

 けれども痩せこけた顔に生気はなく、声にかつての艶は見えない。気丈に振る舞う様子も、すさんだ心の様子がうかがえて痛々しい。

 

「お久しぶりです、エリーナお姉様。こちらの椅子に座ってもよろしいでしょうか?」


 無言の頷きに、昔のようにスカートの裾を持ち上げて恭しく一礼し、椅子に腰をかける。座ったところまで、彼女はじっと見つめていた。


「……クイナは変わらないわね。えと……その様子じゃ、なんとかやってるのね」

 

「はい。拾ってくださった家族がとても良くしてくださいました」


 ぽつり、ぽつり、と。

 歯切れの悪い言葉で話すのは、私が昔と違うと感じたからだろう。おどおどして、いつも不安そうにしていたクイナはもういない。変わりたいと思ったからじゃない、変わらないと生きていけなかったから。

 あの日、屋敷を飛び出した無知の少女は、荒波にもまれ、泥水をすすり、人間の醜さを知り、地面に這いつくばりながらも生きたいと願った。初めて、リーゼ叔母様でも家のためでもなく、自分のために生に執着して行動を起こした。


「……よく、わたくしに会いたい思ったわね」


 あれだけひどい目に遭わされたのに、という言葉は尻すぼみになって消える。

 沈痛な面持ちで私を見てくるのは、非難されることを怖がっているから。

 

「ずっと考えていました。お姉様に会って何を話そう、どんな言葉をかけてあげればいいんだろうって」


 新聞の記事を読んで、いろいろな慰めの言葉を思いついた。

 けれども、今回はそういう話はしないでおこう、と。


「昔、リーゼ叔母様や料理長、他の召使いの方々、エリーナお姉様やロキお兄様のことが嫌いで、怖かったです」


「……それをいま目の前の本人に言うのだから、末恐ろしいわねあなた」


「そうですね」


 笑うと、彼女も少しだけ微笑んでくれる。自分が思っていたことを伝えても、黙って聞いてくれた。大人になったと言ったら怒られるかな。昔だったらきっと「あなたなんて!」と言って物でも投げてきたかも。

 

 少しずつ、失くした十年を手繰り寄せる。

 こうやって腰を落ち着かせて話せば、取り戻せるものもあるのだと。

 勇気を出して会いに来てよかった。


「…………──がね、いたの」


「え?」


 聞き取れないほどの、小声で。


「…………お腹、へこんじゃったな……」


 レース生地の服越しに自身の平らなお腹を撫でて、エリーナお姉様は遠くを見つめる。

 私に見せないようにしていたのだろう。

 泣いてる顔なんて妹に見られたくない、と。


「エリーナお姉様」


「…………なに?」


「化粧台に移動してください。髪の毛、とかしてないでしょう? 私がしてさしあげますから」


「ふふっ…………ホント、意味の分かんない《見習い召使い》だわ」


 瞳にほんの少しの光。かつて私が憧れた、強い輝き。

 化粧台に移動してもらって、いつかの続きのようにお姉様の髪の毛を手に持つ。高級品だという櫛で、ゆっくりと赤髪を梳く。もともと髪質がよくて、毛先まですとんと落ちた。

 

「……慰謝料、いっぱい請求してやるんだから」


「はい、お姉様」

 





 ◇





 エリーナお姉様から聞いた話によると、リーゼ叔母様は体に不調をきたし半年前から床に伏せっていたという。もともと心臓が悪く病弱で、何度も手術をしたことがある。お医者さんからも長くないと言われたらしいけれど、家の興隆のために教育に心血を注いでいた。

 でも、あえなくシャーリーテンプル家は没落。

 私は知らなかったけれど、我が家は未曾有の財政難だったみたい。もともと納税してくれる領民が少なかったし、教育熱心の弊害で諸費用もかさんでいた。あの朝、屋敷が差し押さえられ、リーゼ叔母様はお姉様とお兄様と他の召使い数人を連れ出し、生家に寄せてもらっていたそう……。


「──エリーナお嬢様から話を伺っていますよ。……お姉様と似て美しく成長なされましたね」


「ご無沙汰しております、アールおじ様」


 会ったことは、おそらく一回だけ。

 きつい性格をしていた叔母様とは反対に優しそうな男性。そんなイメージは変わっていない。気のせいかな、まえより猫背になって小さくなった気がする。

 

「……本当に申し訳ないことをいたしました……」


 スカートの裾をあげて礼をした私に、おじ様は痛ましげな視線を寄越す。後悔と贖罪の混ざった瞳が小さく揺れて、深々と頭をさげる。──妻の代わりのように。


「頭をあげてください。もう五年も昔の話ではありませんか……」


「私にとっては昔のことではないんです。リーゼが……妻が行っていたことは、本当に行き過ぎた教育でした。しかも、あなたを屋敷に残してくるなんて……。申し訳ございません」


 何度も何度も頭を下げる姿に「もういいですから」と繰り返す。

 時間というのは不思議なもので、あれだけ辛かった記憶は、重ねられた新しい思い出に上書きされて風化していく。許すとか許さないとかの話じゃない。

 すべての出来事が今の私につながっているんだ。


「クイナお嬢様──」


「もう、お嬢様ではありませんよ。私はクイナで、リーゼ叔母様にご指導を受けた見習い召使いです。屋敷に取り残されたあの朝に、ただのクイナとなりました」


 相手にとって不愉快な思いを抱かせない、完璧な召使いを演じ切れているだろうか? おじ様の痛ましげな表情に、ちょっぴり自信もなくなる。

 

「本当に……お強くなられたんですね」


「……色々、ありましたから」


 最後ににこりと笑うと「こちらへ」とおじ様が背を向ける。宿主のいない空き部屋を何個も通り過ぎて、やってきたのは小さな個室。入るよ、そう言ったおじ様のあとに続いて入室する。

 簡素なベットと、机と椅子が一つ。

 

「……クイナお嬢様が来てくれたよ、リーゼ」


 叔母様の瞼が、騒がしい靴音に反応することはない。とんがった鼻も、しわだらけの手も全く一緒だったけれど、明らかに体が痩せている。

 あれだけ恐ろしかったはずのリーゼ叔母様。会うと意外と、小さくて。魔女のようだと思っていた記憶は、私の悪意が作り出した妄想だと知った。

 

「二人だけにさせていただいて、よろしいですか?」


「大丈夫ですよ。気が済むまでここにいてくださいね」

 

 丁寧なお礼をして、おじ様が出ていくのを見届けて。

 ベットの近くの椅子に座る。


「見習い召使いのクイナです、叔母様」


 己の胸に輝く神秘具に、そっと手を当てる。どんなときでも見守ってくれる、柔らかな天使様フィーナの温もり。

 

「昔は、リーゼ叔母様のことがとても怖くて、どうして私だけこんな扱いを受けるんだろう、厳しいんだろうって思っていました。Ⅲ級天使だから? 加護を授かっても位が低ければ、貴族の娘としてみっともないのって」


 綺麗なドレスを着るエリーナお姉様が羨ましい。魔法の勉強をするロキお兄様が羨ましい。

 どうして私だけ見習い召使いなの、と。


「でも、違うんですね。これって私が都合のいいようにお姉様やお兄様を見ていただけなんです。貴族の令嬢として周りからどんなプレッシャーを与えられているのか、好きでもない男と結婚させられるようなことがあるなんて、想像もしてみませんでした」


 きっと私が見習い召使いでなくとも、同じような苦境に喘いで周りの人間を羨望するに違いない。そして思うのだ、あの人が羨ましいと。

 だから考え方を変えた。隣の芝生が青く見えるのは、自分を見ていないから。もっと自分と向き合っていこうと。


「本当に……私を育ててくださって、ありがとうございました……」


 レベッカさんに「手際がいいね」と褒められたのは、厳しく教育してくれたからで。

 その感謝の言葉を、やっと言うことができて……──


「…………」


 十分ほど見つめたあとに。

 肉厚で大きな花弁が高潔さを誇る白いユリを、リーゼ叔母様の枕元に添える。派手好きな彼女なら、きっと喜んでくれるはず。

 退室して、おじ様に声をかける。もういいのですか? そう聞く彼の目尻に、光るもの。私は再び感謝の言葉を述べて、深く頭を下げてからその場を離れた。

 廊下を歩いているときに、私と同じように花束を持った男性とすれ違った。身長は高く、彫りの深い好青年。見覚えのある顔だと思って振り返っても、こっちを見てくることはない。

 ……気のせいじゃなかったみたい。

 彼は、おじ様と挨拶をしたあとに部屋に入っていく。


 見届けてから、私も再び歩き始めた。










 



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― 新着の感想 ―
[良い点] クイナちゃんの成長と気持ちの移り変わりが上手く描かれています。 読みやすい文章、スッと入ってくる描写力は巧みだなと思いました。 [気になる点] 欲を言えば、もう少し落ち着きがほしいです。…
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