栞跡(三十と一夜の短篇第38回)
これまでいろいろな本を読んできた。読んで人生観が変わった本もあれば、ただ軽い娯楽を求めただけで名前すら忘れてしまった本もある。スルメみたいに何度も噛んだ本もあれば、あっさり流し読みしたものもある。不行状を糾弾した本もあれば、悪徳を誉めたてた本もある。楽観的な本もあれば、お先真っ暗と絶望した本もあった。
わたしはこうした本たちを一か所に積み立てた塔の上に立っている。でたらめな積み方をしたそれはいつもぐらぐらしていて、いつ崩れ落ちるか分からない。本の塔の頂上は藍が濃い空にあり、そこから見下ろした地球は丸みを帯びて見える。そんな高い空に全くの孤独というわけではない。レコードやCDケースを積み重ねて立つものもいれば、アニメのDVDの上に立つ人もいるし、行政文書の束の上に立つ人もいる。もちろん札束の上に立つ人も。そして、札束の上に立つ人が一番安定していた。
こうした人々と言葉を交わすことはなかった。立っているものが異なっているから話が合わないのだ。レコードの上に立つ人は音楽の話しかしないし、アニメのDVDの上に立つ人はアニメの話しかしない。行政文書の上に立つ人は一点の過ちもない完璧なお役所文書をつくること以外に興味はなかった。札束の人は見たことがない。彼だか彼女たかが札束を積み上げるスピードはわたしの読書スピードよりもはるか上であり、札束の塔はまっすぐ成長し、藍の天空の小さな点に収縮していく。
ある日、木内昇の『ある男』を読み終えて、カート・ヴォネガットの上に積み、腰を下ろした。最初のうちは読んだ本を全部重ねて、それが自分の背丈を越えたと喜んだものだ。それからどんどん本の塔が高くなるのが嬉しくて、乱読した。文豪の全集なぞ好んで読んだが、それは面白さというより、分厚さと数のために読んだ。そうやって読んでいくうちにふと、このまま高みに上っていくとして、それはどこを目指しているのかと思い、すると、今度は本の塔を高くするのが一転怖くなった。もう本は読むまいと思ったが、体はすっかり活字中毒であり、何か読んでないと落ち着かなかったが、読了後、また一冊分高くなると、そのせいでも落ち着かなくなった。札束の人のように何かに吹っ切れてどんどん上る人が羨ましく思い始めた。
ある日、地上で世界恐慌が起きた。札束の塔がぐらぐら揺れ始め、ついにバラバラと崩れ出した。だが、札束の人は落ちてこなかった。
それが引き金になった。上ったきり。どこに行ったのかも分からない。それがたまらなく恐ろしくなって、この恐ろしさから逃れられるならどうなってもいいと思い、ほとんど発作的にわたしは本の塔から飛び降りた。
体が薄い空気とこすれるなかで、まず中毒化した読書習慣が剥がれ落ちた。次に本を積み上げることに快感を感じていた虚栄心が剥がれた。思想や知識が虚勢や硬化した思考の殻を失って、一つまた一つと単純化していき、消滅した。読めるけど書けない難しい漢字が消えた。そして、地面に激突するその瞬間、初めて本を手にしたときの、あの不安と期待に満ちた一瞬が消えた。
気がつくと、わたしは公園のベンチに座っていた。
膝の上には生まれて初めて読み終わった本。
読書のもたらす素直な興奮と余韻。わたしは栞を抜き取った。